もうずいぶん昔だけれど、ルポルタージュ文学、というくくりの作品が続けて出た時期があった。沢木耕太郎とか海老沢 泰久とか。
実在の人物や、出来事を題にとって取材して料理する。明白な事実部分が7割で料理した部分が3割、そんな配分かな。ノンフィクションとフィクションの割合が7:3。
見てきたような嘘、ではなくて、見てきたようなリアル。でもあくまで、見てきた「ような」。
だからルポルタージュ文学と呼びたい作品群。



「コリーニ事件」はこの割合が3:7くらいなのかな、って思う。

先に読んだ「犯罪」でもそうだけれど、この著者はおいしいネタはたっぷり持っているんだと思う。刑事弁護士としての経験が豊富で、有名事件の弁護を手がけてもきたらしい。「事実は小説よりも奇なり」だよ、という揺るぎないエクスキューズをまず持っているから、小説、フィクション部分をどう書いても失敗はないと思う。
だけど、「コリーニ事件」が成功しているのは、フィクションを作りすぎていないところかな、と思う。過剰さがなくて品が良い。生粋の小説家ではないところが、ロジカルな思考が身についている法律家らしい文体と虚構が、「端正」さを醸しているのだと思う。

書き過ぎない、のか、これ以上書き込めない、のかはわからないけれども。でも、これはそれでいいような気もする。この先、文学的な欲を出した時にどうなるかはわからないけれど。



事実は小説より奇なり、ということで言えば、やっぱりこの小説の中に含まれる3割の歴史的事実に驚く。
実在のエドゥアルド・ドレーアー博士が起草した「秩序違反法に関する施行法」のくだりは戦慄した、といっていいかもしれない。大げさじゃなく、なにかとても邪悪なものを想像した。
それから元ナチスSSのフリードリヒ・エンゲルの起訴、有罪棄却はついこの間のことで
2004年。新聞で記事を読んで、「え?まだナチスの戦犯裁判が続いているの?」とそこにびっくりしたので覚えている。

訳者あとがきに詳しいけれど、作者フォン・シーラッハの家系や交友関係の話を読んでも、歴史の影は今を生きる人の足元にまでまだ伸びているのだと、とても静粛な気持ちになった。

この小説の、フィクション部分よりもノンフィクション部分にずっと大きな驚きを感じたのでやはり「事実は小説より奇なり」なのだけれど、この作品は読んで良かった。そう思う。










コメント

はにゃ。
2014年2月25日15:19

端正、ですよねぇ。

>フィクションを作りすぎていないところかな、と思う。過剰さがなくて品が良い。

同意です。淡々と、書き過ぎず、足し過ぎなかったのが良かったのでしょうね。

特にこの小説で描かれている法律とその影響が、あまりにも「小説より奇なり」で。驚く人がほとんどではないかと思いますよね(勿論私もその一人)。

最近のアメリカのミステリ系の小説でもナチスを題材に書かれているものを散見しますので、知識人の中では風化させたくない意識があるのかなっと思ったりしております。



それにひきかえ日本では特攻隊を美化する小説が大ヒットだもんなぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・と。とほほ。

美藤
2014年2月28日0:25

ドレーアーの施行法やワルサーP38とか、ニュルンベルク裁判とかあれこれネットで読み耽ってしまいました。
ほんの少し前。祖父の時代のことなのに現代史を知らなすぎるなーと思いました。

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