イサム・ノグチの庭
イサム・ノグチの庭
イサム・ノグチの庭
毎年恒例の冬旅は、2年ぶりに札幌へ。
イサム・ノグチの最後の作品「モエレ沼公園」が札幌の郊外にあると知って行ってきた。
 
先日の青葉市子のライヴで行った草月会館のエントランスもイサムの作品で、日本での代表作と言われているところ。それを知ったのが、ライヴ当日で、アクセスを調べていて気が付いた。会館についた時間が遅くて、その「天国」と名前の付いた屋内庭園へは入れなかったのだけれど、外から様子を覗いて、エントランス前の黒花崗岩の柱を眺めてきた。

札幌の予約を入れたのは、評伝「イサム・ノグチ」を読む前だったし、なんとなく流れがイサム・ノグチに向かっている。
 
「天国」も「モエレ」もずっとそこにあったわけで、イサム・ノグチもずっと存在したわけで、つまりは私がそれをいまさら知ったってだけのことなんだけど、でもそれはやはりちょっとした「発見」なわけで、嬉しいこと。



札幌は雪模様で、冬営業に切り替わった平日はモエレ沼公園にひと気がなく、ガラスとスチールでできた美しいピラミッドの中でひとりきりだった。

札幌郊外は、視界のうちで空の占める割合がとても大きい。立ってまっすぐ前を見て、7割は空だ。黄色いカラマツの林、イサムの築いたモエレ山も視界の低い位置にあって、ガラスのピラミッドの中から見えるものの大半はグレイの空。その空をノスリのつがいが大きな弧を描いて舞っていた。

前夜、イサム・ノグチをイメージした音楽のMixを友人が送ってくれていて、そのタイトルが「Bird’s-eye View」でピラミッドからの眺めにあまりにぴったりで、それを聴きながら極上のひとりぼっちを堪能した。
気が付いたら4時間経っていた。バスの時間が合えばまだまだそこにいたのに。



私はアートがよくわからない。
特に絵画。どう見たらいいのか、なにを感じたらいいのかわからない。
見ても何も感じてないのかな?
手を伸ばして触れることはできないし、その絵とわたしのあいだにある距離がじれったいような気がして落ち着かない。まして鑑賞者の流れの中でなんて、私にはなにも感じられない。
絵との間に親密な空間がたちあがらないとダメなのかも。と思うのは、佐喜眞美術館の「沖縄戦の図」と東京都美術館「手紙を書く夫人と召使」を見た時の、部屋に絵と私とふたりきり、という幸せな状況を思い出すから。
絵を見ている、絵も私を見ている、、そんな親密な空間からしか感じられない。
私のセンスのなさでもあるんだけど、私はそういう空間に身を置くのがとても好きなんだと思う。
 
イサム・ノグチは空間を彫刻したひとで、彼の彫刻作品としての庭≪ガーデン≫にとても惹かれる。


長靴を借りて、雪をかぶったクローバーの草原を歩き、プレイマウンテンに登り、サクラの森で遊具を眺めて過ごしたイサム・ノグチの庭は楽しかった。

イサム・ノグチが「ひとは皆それぞれの『エデンの園』をもっている」と言ったそうだけど、そう、帰りたい庭を思い描けるのは幸せなことかもしれない。





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