「沈黙 サイレンス」
小説を読んだのは大昔、高校生の時で、きっとまだとても純情で、キリスト教の神や信仰、殉教ということにあこがれめいた想いをもって読んだんだろうと思う。
小説の細部は忘れてもその記憶があったので、映像化ってどうなんだろうと思ったけど、「原作を裏切ってないよ」という友人評を聞いて、観に行ってきた。


10代で原作を読んだ時のような「重さ」は感じなかった。

前半は、誰にも気持ちを添わすことができず、少し困ったような気持ちになりながら観た。
「転ぶ」もなにも、あの時代の、日本の、農民が、何ゆえにキリスト教の神を信仰したのか、その心情があまりにも遠すぎて。
あの言葉の通じなさのなかでキリスト教の「愛」とか「原罪」なんて理解できると思えないし、実際、死ねば「天国」という楽園へ行って現世の苦しみから逃れられると思ってるとこ描かれてたしね。ロドリゴも「それ、違う…」って顔してた。
サックリ言ってしまうと「これって誰得なの?」「沈黙するツンデレな神に、命がけの片思い?」って、思ってしまって。「誰かシアワセになるのか」という感想は10代で読んだ時にも思ったけれど、当時ほどの切ない素直な想いは生じなかった。


一番共感できたのは、やはり井上さまなんだよねー。井上さまのおっしゃるとおり、いちいちごもっとも、、って思ったもん。私、120%日本人だわ。


踏み絵を踏ませる時の「形だけで良い、軽くで良い」というセリフ。
これ西洋人からしたら悪魔の囁き以外のなにものでも無いよね。それこそOMG!だろうな。
でも、この本音と建て前のダブルスタンダード。これこそ日本だもの。

踏み絵を踏んだロドリゴが、心の底で信仰を捨てていなかったことも、井上さまは知っていたと思うし、ロドリゴがなにを信じようがどうでもよいことだと思ってたろう。建前が大事だから。だから、棄教後もなんども踏ませた。建前を維持するために。



10代で読んだ小説と、50代で観た映画は、やっぱり別物だったけど、それはたぶん私の側の問題。映画はふつうに映画として楽しんだ。ちゃんとエンターティメントだった、って意味で。


モキチの塚本晋也、良かった。
浅野忠信もイッセー尾形も良かった。このふたりの演じたキャラクターの造形が原作でどう描かれてるのかちょっと確かめてみたい気もする。
すっかり忘れてたけど、棄教したロドリゴとフェレイラの「キリスト教鑑定士」みたいなその後の人生、なんだかとても興味深かった。そこを描いた小説とかあったら読んでみたい。
 
 
野良犬のようなキチジロウ、とても良かった。
なんど痛い目にあっても、尻尾を後ろ足の間に巻きこんでびくびくしながらなんどでもすり寄ってくる野良犬のようなキチジロウ。その人恋し気な姿(神恋し気と言うべき?)。なんだかとても愛おしいと思った。


聖画に描かれたキリストの顔は、キチジロウに似ていた。









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