中学1年の夏休みに父と車で猪苗代湖へ旅行に行った。
野口英夫記念館を訪れて湖畔のホテルで一泊した記憶があるんだけど、父とふたりでの旅行って、後にも先にもあれが最初で最後だったかも。
高校のとき友人と4人で小野川湖のロッジに遊びに行った。テニスをしたり山歩きをしたり。真夜中に外に出ると自分の指先も見えないくらいの深い闇に驚いた。
大学のサークルの合宿先は毎年五色沼や会津若松だった。
郡山や三春、白河、思い出すと福島へはなんども出かけている。長い付き合いの友人にも福島出身が何人もいる。福島は東京から一番近しい東北。
私、カタカナで書く「フクシマ」という言葉が苦手です。
2011年の原発事故のことを「フクシマ」と言うのやめない?って思う。
福島とよばれる地方と、原発事故のことを区別するために「フクシマ」って言ってるのはわかるのだけど。。
収束のめども立たない原発事故のことを「フクシマ」と言って話題にするたび、福島の地を、人身御供にしているような後ろめたさを感じる。
福島の地にはなんの罪科もないのに。
被災していまだに救済されずにいる福島の人達の中には「原発を受け入れてそれで暮らしていた」といって俯くひとさえいる、、、やめてやめてやめてください、、と言いたくなる。そんなこと言ったら、日本人で顔を上げられる人いないです、と思う。
原発から離れ被災を免れてさえ「フクシマ」に痛みを感じる福島県人がいるのを知ってる。
わかりやすく「フクシマ」と言ってしまうことで、被害に遭った人達と福島に住むすべてのひとを、「人身御供にしている」そんなふうに感じてしまう。
自分の生まれ育った地をカタカナ表記にされて、特別な意味合いでずっと使われたら、、、どう感じるだろう。
無用な、なんの謂れもない、理不尽な刻印を押されているように感じるのじゃないか。。
私もなるべく「311の事故」とか「原発事故」って言おうと思いながら、つい「フクシマ」と言ってしまうことあるので、偉そうなことは言えないのだけれど。事故の後始末にしても原発の廃炉や廃棄物の処理にしても、このさき何十年かけてようやくめどが立つかどうか、、、という絶望的な状況が分かってきて、それは福島という一地方の問題ではないのは明白で、福島にだけ言葉の重荷を背負わせるの、せめてやめられないのかな、、と思うのです。
世界に通じる言葉になってしまったから、難しいのかもしれないけれども。。
野口英夫記念館を訪れて湖畔のホテルで一泊した記憶があるんだけど、父とふたりでの旅行って、後にも先にもあれが最初で最後だったかも。
高校のとき友人と4人で小野川湖のロッジに遊びに行った。テニスをしたり山歩きをしたり。真夜中に外に出ると自分の指先も見えないくらいの深い闇に驚いた。
大学のサークルの合宿先は毎年五色沼や会津若松だった。
郡山や三春、白河、思い出すと福島へはなんども出かけている。長い付き合いの友人にも福島出身が何人もいる。福島は東京から一番近しい東北。
私、カタカナで書く「フクシマ」という言葉が苦手です。
2011年の原発事故のことを「フクシマ」と言うのやめない?って思う。
福島とよばれる地方と、原発事故のことを区別するために「フクシマ」って言ってるのはわかるのだけど。。
収束のめども立たない原発事故のことを「フクシマ」と言って話題にするたび、福島の地を、人身御供にしているような後ろめたさを感じる。
福島の地にはなんの罪科もないのに。
被災していまだに救済されずにいる福島の人達の中には「原発を受け入れてそれで暮らしていた」といって俯くひとさえいる、、、やめてやめてやめてください、、と言いたくなる。そんなこと言ったら、日本人で顔を上げられる人いないです、と思う。
原発から離れ被災を免れてさえ「フクシマ」に痛みを感じる福島県人がいるのを知ってる。
わかりやすく「フクシマ」と言ってしまうことで、被害に遭った人達と福島に住むすべてのひとを、「人身御供にしている」そんなふうに感じてしまう。
自分の生まれ育った地をカタカナ表記にされて、特別な意味合いでずっと使われたら、、、どう感じるだろう。
無用な、なんの謂れもない、理不尽な刻印を押されているように感じるのじゃないか。。
私もなるべく「311の事故」とか「原発事故」って言おうと思いながら、つい「フクシマ」と言ってしまうことあるので、偉そうなことは言えないのだけれど。事故の後始末にしても原発の廃炉や廃棄物の処理にしても、このさき何十年かけてようやくめどが立つかどうか、、、という絶望的な状況が分かってきて、それは福島という一地方の問題ではないのは明白で、福島にだけ言葉の重荷を背負わせるの、せめてやめられないのかな、、と思うのです。
世界に通じる言葉になってしまったから、難しいのかもしれないけれども。。
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