「牯嶺街少年殺人事件」**
2017年12月25日 映画
20代で出かけた初めての海外が台湾だった。
飛行機のドアから出たとたん、温かく湿った空気に混じって八角が強く匂った。
基隆へ行った。清朝時代の砲台跡、というのを案内された。海峡のほうへ行けばホンモノの大砲を見ることもできます、と言われて男性陣はそれを見に行き、女の子たちは基隆の街をながめて時間を過ごした。ホンモノの大砲がどこを向いているのかなんて、気にもしなかったと思う。
南国の気配が濃くて台北市内を歩き回るのは楽しかった。暑い国らしく深夜まで人出で賑わう街の灯りが美しいと思った記憶がある。総統府の建物もイルミネーションで縁取られていて、なんて大らかな、、って思ったのだけれど、行ったのがちょうど旧正月の時期だったから特別だったのかもしれない。屋台の食べ物はどれも美味しかった。果物をいっぱい食べた。
街をぶらぶらしていると、私の祖父くらいの年齢のお爺さんによく話しかけられた。上手な日本語で。日本人観光客慣れしているからだけではない流暢さだった。理由に気が付いてドキッとした。日本の支配を受けていた時代に教育を受けた世代なんだと気が付いた。それに気づいてからすこし居心地が悪くなった。
日本はここでなにしたんだろう、酷いことしなかったろうか、と。
台湾のひとは親日家が多いと聞いてはいたけれど。
1920年代生れは、日本統治下の比較的良い時代と、中国国民党支配になった冷戦時代の空気の違いを知っているので「日本時代」を懐かしむ人も少なくないというのを後で知った。
日本語が上手いのも、母国語を禁じて日本語を強制するような高圧的なものではなかったらしいとわかってすこしほっとした。
近現代史に無知すぎたよね。いまでも、だけど。
「牯嶺街少年殺人事件」を観て、時代背景をぽつぽつと検索しながら、そういえば、、と台湾旅行の時のことを思い出して、付け焼刃の歴史知識で肉付けしてこれを書いてる。
牯嶺街の中で、内省人と外省人というのが描かれている。といっても、前知識なしで観ていたら日本人の私にはぴんと来ないのだけど。赤い中国の建国前から台湾に住んでいたのが内省人。その前後に台湾にやってきたひとたちが外省人。
冷戦時代の反共意識もあって、内省人と外省人の間にはいろいろな軋轢があったらしい。
日本に対する意識にも温度差がある。日本統治下で比較的穏健に日本文化に馴染んだ内省人と、大陸で日本軍の侵略を体験したあげく共産化する中国から逃げてきた外省人。
上海から移ってきたシャオスーの母親が、日本風コロニアル様式の家で言う。
「日本と8年戦って(戦ったのに)、日本の家に住んで日本の歌を聞くのね…」
日本と戦争し、中国人同士で戦って、ひとつのはずの故国の中でよそ者として暮らさざる得ない……。激動の年月を中国のひとたちは生きてきた。
職場に中国人スタッフがいる。
中国語の資料を読んでもらおうと思ってプリントを渡したところ「読めません」と怒ったように突き返された。
私が渡したのは簡体字、大陸で使われている文字のプリントだった。彼女は繁体字を使う台湾の出身だった。
「私たちは正確な漢字を習うの。こんな略字はひとつも使ったことないです」
いまだに単一民族幻想を信じている日本人からは想像もつかない、複雑な感情があるのだとそのとき教えられた。中国人とひとつの単語で呼ぶには中国はあまりに広大だね。台湾海峡の大砲は、大陸に、中華人民共和国に向けられて置かれているのだったよね。
日本人は平和ボケ、って言われる。
そう言われると、平和ボケのどこがいけない?って思う。
幸せなことじゃないか、と。これから先も平和ボケしていたいよって。
それ本心だけど、日本の近い過去の歴史、特にアジアの近い国々との歴史的関係については鈍感過ぎたと思う。
思えば台湾に行ったとき、まだ戒厳令下にあったんだよね。なにか注意を受けたような気がするんだけど、初めての海外旅行で、異国での注意事項なのか戒厳令下での禁忌事項なのか区別もつかなかった。
極東の島国で呆けきった頭が想像する以上に世界は複雑で恐ろしい。
飛行機のドアから出たとたん、温かく湿った空気に混じって八角が強く匂った。
基隆へ行った。清朝時代の砲台跡、というのを案内された。海峡のほうへ行けばホンモノの大砲を見ることもできます、と言われて男性陣はそれを見に行き、女の子たちは基隆の街をながめて時間を過ごした。ホンモノの大砲がどこを向いているのかなんて、気にもしなかったと思う。
南国の気配が濃くて台北市内を歩き回るのは楽しかった。暑い国らしく深夜まで人出で賑わう街の灯りが美しいと思った記憶がある。総統府の建物もイルミネーションで縁取られていて、なんて大らかな、、って思ったのだけれど、行ったのがちょうど旧正月の時期だったから特別だったのかもしれない。屋台の食べ物はどれも美味しかった。果物をいっぱい食べた。
街をぶらぶらしていると、私の祖父くらいの年齢のお爺さんによく話しかけられた。上手な日本語で。日本人観光客慣れしているからだけではない流暢さだった。理由に気が付いてドキッとした。日本の支配を受けていた時代に教育を受けた世代なんだと気が付いた。それに気づいてからすこし居心地が悪くなった。
日本はここでなにしたんだろう、酷いことしなかったろうか、と。
台湾のひとは親日家が多いと聞いてはいたけれど。
1920年代生れは、日本統治下の比較的良い時代と、中国国民党支配になった冷戦時代の空気の違いを知っているので「日本時代」を懐かしむ人も少なくないというのを後で知った。
日本語が上手いのも、母国語を禁じて日本語を強制するような高圧的なものではなかったらしいとわかってすこしほっとした。
近現代史に無知すぎたよね。いまでも、だけど。
「牯嶺街少年殺人事件」を観て、時代背景をぽつぽつと検索しながら、そういえば、、と台湾旅行の時のことを思い出して、付け焼刃の歴史知識で肉付けしてこれを書いてる。
牯嶺街の中で、内省人と外省人というのが描かれている。といっても、前知識なしで観ていたら日本人の私にはぴんと来ないのだけど。赤い中国の建国前から台湾に住んでいたのが内省人。その前後に台湾にやってきたひとたちが外省人。
冷戦時代の反共意識もあって、内省人と外省人の間にはいろいろな軋轢があったらしい。
日本に対する意識にも温度差がある。日本統治下で比較的穏健に日本文化に馴染んだ内省人と、大陸で日本軍の侵略を体験したあげく共産化する中国から逃げてきた外省人。
上海から移ってきたシャオスーの母親が、日本風コロニアル様式の家で言う。
「日本と8年戦って(戦ったのに)、日本の家に住んで日本の歌を聞くのね…」
日本と戦争し、中国人同士で戦って、ひとつのはずの故国の中でよそ者として暮らさざる得ない……。激動の年月を中国のひとたちは生きてきた。
職場に中国人スタッフがいる。
中国語の資料を読んでもらおうと思ってプリントを渡したところ「読めません」と怒ったように突き返された。
私が渡したのは簡体字、大陸で使われている文字のプリントだった。彼女は繁体字を使う台湾の出身だった。
「私たちは正確な漢字を習うの。こんな略字はひとつも使ったことないです」
いまだに単一民族幻想を信じている日本人からは想像もつかない、複雑な感情があるのだとそのとき教えられた。中国人とひとつの単語で呼ぶには中国はあまりに広大だね。台湾海峡の大砲は、大陸に、中華人民共和国に向けられて置かれているのだったよね。
日本人は平和ボケ、って言われる。
そう言われると、平和ボケのどこがいけない?って思う。
幸せなことじゃないか、と。これから先も平和ボケしていたいよって。
それ本心だけど、日本の近い過去の歴史、特にアジアの近い国々との歴史的関係については鈍感過ぎたと思う。
思えば台湾に行ったとき、まだ戒厳令下にあったんだよね。なにか注意を受けたような気がするんだけど、初めての海外旅行で、異国での注意事項なのか戒厳令下での禁忌事項なのか区別もつかなかった。
極東の島国で呆けきった頭が想像する以上に世界は複雑で恐ろしい。
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