「コードネーム・ヴェリティ」
スパイというのは、蔑まれる存在だ。

戦時中で、祖国を守るためという大義が与えられていたとしても、本人がどれほどの純粋な使命感に突き動かされていようとも、スパイであるということは優秀な噓吐きだということだ。頭が良く機転が利き、上手な作り話をしそれを演じて見せることができる人間であるということだ。
戦火が燃え広がっている時ならば、ひとつの陣営で英雄になることはできるけれど、同時に別の陣営にいる誰かと結んだ信頼を裏切り続けているということでもある。
神経をすり減らして命がけで祖国に誠実であろうとして、なにかを欺く者。
戦争が終わったあとに、生き延びたスパイに心からの信頼を寄せる者は少ないと思う。なんの猜疑心もなく、無防備に接する者がいるかな? 味方であったとわかっていても。




わたしは彼女をうらやんだ。その仕事の単純さ、その仕事の精神的な汚れのなさを――“飛行機を飛ばして、マディ”。彼女がしなければならないのは、それだけ。罪の意識も、道徳上の板ばさみも、迷いも、苦悩もない。そう、危険はあったけれど。彼女は常に自分がそれに直面していることを知っていた。さらに私は彼女がその仕事をみずから選び、やりたいことをやっていることをうらやんだ。わたしはじぶんが何を“したい”のか、わかっていなかったと思う。だから、選ばれたのだ。選ぶのではなく。選ばれることには、名誉や栄光がある。でも自由な意思が入り込む余地はあまりない。





書くこと。時間稼ぎでもあり、一縷の望みをかけて情報を伝えようとすることでもあるけれど、書くことが彼女を支えていたのだと思う。マディの物語を書くことは、クイーニーが生きたかった青春を生きること。後ろめたさのない、まっすぐな人生を生きること。クイーニーがまるでそこにいて見ていたかのように描かれる、マディの空を翔る日々の健やかさ。ふたりで過ごした時間を綴ったシーンの瑞々しさ。
暴力を受け、尊厳を剥ぎ取られ、恐怖にさらされてなお凛々しくあろうとするクイーニーの勇気の源泉だったんだろう。二十歳をいくつもでていないだろう彼女の、“ジュリー”の人生の真実を知ってほしかった、誰に!


凛々しく生きながらえることの困難さ。凛々しく老いることは不可能だろうな。凛々しさというのは、たぶん若さの一部なんだ。

だから、もはや凛々しくはないと自覚する大人、一度も“精神的な汚れ”を持ったことなどないと言い切る自信のない大人は、凛々しく生きた女性に心揺さぶられる。



エンゲルもペンも、複雑な仕事をして裏切りを働いている。
どちらも“協力者”だ。でもこのふたりにも、彼女たちの真実の物語があったはずだ。クイーニーと同じように。
クイーニーだって、彼女が尋問した二重スパイのドイツ人からしたら、唾棄すべき存在で、それは彼にとっての真実だ。

マディだけが自覚的には裏切りを働かなかった。
マディはまっすぐに飛び続け英雄になることもできるだろう。
だれも彼女の行為を責めはしないだろう。
それでも彼女ひとりだけが傷を負わずにはすまなかった。
彼女のしたことを、彼女は語れなくなるだろう。


彼は、彼女は誰なのか、だれが言うことが正しいのか、どの言葉を信じたらいいのか、、、真実がどこにあるのか、なにひとつわからなくなる、まっすぐ飛ぶことが困難な時代、誰も無傷で生き延びることなどできない時代、それが戦時ということなのかな。

うん、胸ふるわせる優れた戦時小説だった。
マディとジュリーが目にする奇跡的な緑閃光や、暗いドーバー海峡から見る遠くの雲に走る光、イギリスの海岸線。ふたりの若い女性の輝きそのもののようで美しかった。航空小説としても楽しんだ。

札幌で、寝る前に少しだけと読み始めてとまらなくなり、読み終わったのは午前10時を回っていた。その日は明るい時間をまるまる失った(笑)



コメント

はにゃ。
2018年8月29日14:23

うんうん。

次作が出るらしいですよ。

『エリザベス・ウェイン『ローズ・アンダーファイア』(吉澤康子訳/創元推理文庫)読了。圧巻。万感の思いとともに巻を擱く。WWⅡの最中に、苛酷な状況下にあってお互いを信じ闘う女性同士の紐帯を生き生きと描いた『コードネーム・ヴェリティ』の姉妹編』と。

元気になったら読もうかな :-)

美藤
2018年8月30日0:20

凛々しい女の子たちの物語だとしても、WWⅡの話は辛いから元気じゃないと気持ちが持たないよね。
文庫のあとがきにあったんだけど、ジュリーかマディのどちらかが15歳で登場する物語も書いてるらしいね。「アガサ・クリスティとダウントン・アビーを合わせたような」物語で戦前の話だから、美少女ジュリーが活躍するのかも?こっちだったら、気楽に読めそう(笑)

読み終えてからレビュ読んだけど、評価分かれるのね。☆5か☆2か、どっちか、みたいな。読み難いっていう感想も多いね。私は、ちょっと翻訳がYA意識しすぎなんじゃ?と思うところがあって、読み始めは「合わないかも…」と感じたんだけど、気が付いたら一気読みでした。
手記という形式だからなおのこと、「真実」がどこで語られてるのか、語られてないのか、いくらでも深読みできて、そういったとこまで計算して書かれてるなら凄いなと思う。
一年かかっちゃったけど、はにゃ。さんのおススメはやっぱり外さない!

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