「土の記」

2018年9月9日 読書
「土の記」
 
  
この小説を説明することが私にはできないので。
https://style.nikkei.com/article/DGXKZO11975330R20C17A1MY6001




髙村薫は文豪だと、ほんとうにそう思う。
2011年の東日本大震災のあとに書かれた小説に、やっと文学として昇華された作品が生まれたのだなぁと思う。


私たちはカタストロフィを見てしまった。
あれほどのカタストロフィがあると知ってしまった。
その衝撃をそのエネルギーのまま意識して生きることはできないけれど、文字通り、突然に足下が崩れ去ることがあると、首筋のあたり、土踏まずのあたりで、うっすらと予感し続けている気がする。

それでも。
それでも、だ。

揺れ動く大地を逃れて
逆巻く大海を避けて
宙に浮くようにして生きることなど私ちにはできない。
土のうえで、土の恵みをかき集めながらしか生きることはできない。
だから、雨の音に土の変化に最大の関心をはらう。

なのにいつも思い出すのは「自然は人間に無関心だ」という言葉。
311のあと池澤夏樹が「春を恨んだりはしない」の中で書いていた言葉。
自然は、人間になど、忖度しない。

自然と人間は and でつないで並び語られるようなものではない。これっぽっちも対等じゃない。そのことに呆然としつつなすすべがないのでまた稲籾を整え、苗を育て、田に植える。大地のほんの薄い表膜を借り、植物の力を借りて土と繋がる。それしか生きるすべはない。


平成7年の大震災、23年の大震災、大水害、、雨の音の向こうにカタストロフィの気配が通奏低音のように聴こえてくるけれど、それでも、生命力にあふれた女たち、太陽エネルギーを直接取り込む植物、大地に呑みこまれても押し流されても新たに生れることをやめないムシケラども、、奈良の土地に千年万年続く営みが圧縮されてむせ返るような生命のエネルギーが小説世界に充満している。

一握りの稲籾を見ながら、手の中に大宇陀の大地を見、そこからGoogleEarthで高度を上げてゆくように移ろう伊佐夫の思念を通して語られる、超自然と自然と人間のそれぞれを淡々と眺めるような描写に引き込まれた。



Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time.
              「Macbeth」




   ・・・・・


この本は、6月中旬に読み終えていた。日記に書きたいと思ってもうまくまとまらずにいて、大阪に地震が起こり、西日本の大水害、複数の台風、そして北海道の地震と立て続け。絶句するしかなく、書けずにいた。
これほどカタストロフィの多い列島に住む私たちにかける見舞いの言葉も浮かばない。





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