「生きるとか死ぬとか父親とか」
2019年2月5日 読書 コメント (2)
私が父について書こうと決めたのには理由がある。彼のことをなにも知らないからだ。一緒に過ごしてきたあいだのことはわかっている。しかし、それ以前のことはチカコ姉さんが誰かわからないように、はっきりとしない。一緒に過ごしてきたこの四十数年だって、私が目で見て感じてきたことでしかない。いままで生きてきて一番長く知っている人のはずなのに。私は父のことをなにも知らないも同然だ。
母は、私が二十四歳の時に、六十四歳で亡くなった。明るく聡明でユーモアにあふれる素敵なひとだった。しかし、私の前ではずっと「母」だった。彼女には妻としての顔もあったろうし、女としての生きざまもあったはずだ。
私は母の「母」以外の横顔を知らない。いまからではどうにもならない。私は母の口から、彼女の人生について聞けなかったことをとても悔やんでいる。父については、同じ思いをしたくない。
最近、友人と同じような話になる。
両親ともに他界した友人、母親が健在の友人、両親ともに健在の友人、両親とも亡くなった私。みな自分が人生をとっくに折り返して、意識の上でもう誰かに庇護される「子ども」ではなくなっているからかな。
私がふと思うのは、私の年齢の時の父が、どんなこと考えてたんだろう?ということだけど、たぶん、私はそれを本気で知りたいとは思ってないかもしれない。
もう父も亡くなって訊いてみることもできないから、だから父を懐かしむかわりに知りようのない面影を空想するのだと思う。生前に、そういう話をしなかったことをあまり悔やんではいない。子供時代青年時代のエピソードなら聞けただろうけれど、それは娘が許容できる「父」の顔を逸脱しない話だ。父の「父」以外の顔など、知らなくていい。私は、たぶんそうだ。
母(実母)については、これはパンドラの箱だ。もう開けようのないのが良かった気がする。
ジェーン・スーのお父さんは「女によく好かれる男」だそうだ。女に「この男になにかしてあげたい」と思わせる能力が異常に発達している77歳、だそうだ。
うん、読んでて、わかる気がする。それがわかるように書かれてるってことは、彼女はお父さんが好きなんだろうな。いろいろあって、腹立たしさも詰りたいようなことも抱え続けているようではあるけれども。
私には、親と、ひととひととして向き合う根性はない。
もういないから、知りようのない問いを立てて物語を想像することで父を近くに感じる遊びを楽しめる。
コメント
今は亡くなってもう誰からも父のことは聞けないけれど、私と父はそれで良かったんだろうなぁ・・・・、そういう関係だったんだろうなぁと。って、口に出すと冷たい娘みたいだけど。ははは。
本自体はまだちょっと読めずにいます。
聞く時間がいっぱいあった頃は、自分の人生に夢中で親の人生になんて興味わかなかったくせにね(笑)親子って、こんなもんだよね、きっと。