丸の内線の発車メロがキライなわけ。
2020年3月10日 日常2008年頃、仕事で霞が関に通っていた。
丸の内線の霞ヶ関駅で降りて、霞門から日比谷公園を抜けて歩いた。
官庁街で子供のいない日比谷公園は落ち着いていて通り抜けるだけでも気持ちよかった。時間に余裕があるときは松本楼でランチでカリーを食べたりした。
12月のある日。
公園の真ん中にある広場にたくさんのテントが建った。
年越し派遣村だった。
その年の春先からアメリカのサブプライムローン問題が報道されていた。アメリカの経済が危ない、と。9月に、リーマンショックが起きた。
日本で派遣切りが始まった。
派遣という働き方が始まった頃を知っている。
高い専門性とスキルを持った人が、それを必要とする企業に非常に高い時給(あるいは日給、出来高制)で、週5・フルタイムという拘束を受けずに働ける自由度の高いものだった。普通のサラリーマンには手の届かない憧れの働き方だった。職種も限定されていた。
規制緩和で、職種の限定がなくなったというのは、ニュースで耳には入っていたけれど、それがどういうことなのかわかってはいなかった。
2008年の暮れに、日比谷の派遣村に集まったひとたちは製造業が大半で、会社が用意した宿舎に入って最低賃金にちかい時給で働いていて、契約を切られたら住むところと収入を一度に失うのだと、連日の派遣切りのニュースを見て知った。
毎日目にするテント村の風景は、息苦しかった。霞が関のキレイなビルに囲まれたテント村。これが2008年の日本の現実なんだと思うと息が詰まった。
その頃、株価が連日のようにニュースになっていたので、株なんかまるで分らないけれど「1万円を割った」とか「下落止まらず7000円台に」とかいうのを聞きながらやっぱりドキドキしてた。
2009年の春で勤務地が変わったので霞ヶ関駅を使うことはなくなったのだけれど、この頃の日本の状況の悪さと印象が結びついてしまって、しばらくは丸の内線の発車時の車内メロディを聞くのがとても嫌だった。メロディが変わった時はほっとした。
なんでこう、暗い嫌な予感に苛まれるような思い出をわざわざ掘り返してしまうんだろう。根が暗いのかな?まあ、天真爛漫ではないけど。
昨日、NY市場で株が一気に売られて15分間取引をストップしたというニュースが流れてきて。そこから芋づる式に「コロナショック」のトピックを読んでて、2008年の空気感が蘇ってきた。
私が世界の市況を、日本経済を憂いたってどうしようもないのに。正しく憂えてるのかも怪しいのに。
でもね、2008年は311もまだ先の話だったし、終息の予測もつかない疫禍もおこってなかったし、いまよりは政権もましだったし、まだ、まだすこしは体力あったような気がする、日本に。
あ、疲れた。
一年後にまた「アホだったわぁ」と苦笑いできたら、そっと削除しよう(笑)
ここに吐き出したからSNSを閉じて、もっと楽しいこと探そう。
コロナ危機
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/70969
雨宮処凛
https://www.huffingtonpost.jp/entry/hakenmura0221_jp_5c6df09ee4b0f40774cbdf63
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