昨秋に採った種から、たくさんのモミジが芽生えた。
モミジは発芽率が悪いらしく、いままで何度か蒔いたけれど芽が出たことはなかった。友達にもらった3種類のカエデの種も、芽が出なかった。
去年、通り道の枝を整理しながら種を採って、掌いっぱいになったのをゴミ袋に捨てる代わりにこの鉢に放り込んだんだった。そうそう、全く期待しないで、でも一応土をかぶせるだけはして庭の隅に置いてた。
気が付いたらモミジのスプラウトがわっさわさ。
もう少ししたら間引いてみよう。
育つといいな。
そうしたら連れて行ける。
もう10年住んだら、この家は手放そうと思ってる。
私の後に受け継ぐ者もいないし、唯一の財産を使い切って死にたいと思っているから。その時には、庭のモミジも伐られることになる。東京は土地にしか価値がないから、このモミジを愛でてくれる人に譲りたいなんて感傷を受けとってくれる人なんていないと思う。
そんなことを、去年のことがあってからぼんやり考えてた。
この家に執着することにうんざりして。
だけど、あと10年なんて、10年後なんて、あるだろうか。
2年後だって覚束ない。
10年後、モミジはあるだろう。
私が伐らなければ。
ヒメコブシも。レモンも。ソロも。ミカンも。キンカンも。ユズも。
私が伐らなければ。
私が手放せば。モミジもレモンも根こそぎ伐られる。
持って行けると思っている鉢植えにしても、私が死んだら終わる。
私の寿命をはるかに超えて生きるだろう樹木。
木って、ほんとうは世代を超えて守られるべきものなのだよね。
だけど住宅地に植えられた樹木は消耗品。
救いは、樹木がそんな人間の都合に無頓着なとこか。
庭のモミジがあるから、この家にずっと住みたいと思ってきた。
この美しい木をずっとずっと眺めて暮らしたいと。
ふと思う。
ものすごい片思いをしているんだなって。
モミジは、伐られることなどなにほどにも感じないだろう。
モミジは、モミジが美しいことも知らない。
あなたの美しさに私がどれほど慰められてきたか、そんなこと知ったこっちゃないね。
コメント
けど。
ある日突然伐られて、その区画にはアパートが建ってしまった。
そのアパートの今の住人たちはそこに素敵な木があったことも知らない。
>モミジは、モミジが美しいことも知らない。
ほんとだね。樹も花も自分が美しいことも知らず。我々は片思いして。
勝手な都合で伐られるんだよね。
私の片思いは富士山かな。
自室から遠くに見える富士山に未練があって。
この家にずっと住むのか、いずれ売ってどこか他の場所に暮らすのか、決められずにいる。
鉢のモミジ、可愛いねぇー。綺麗だねぇ。
美藤さんの慰めになりますように。
富士山は連れて行かれないからさw
私、ご町内の地図を庭木マップ的に認識してるみたいで、モッコウバラのお家とかイチジクの角とか、柿の木のある庭なんて感じで覚えてる(笑)だからついこの間も、見事な藤棚のある古い家が更地になっててびっくり。
ほんとに、首都圏ではびっくりするくらい突然にあっさりと大きな樹が伐られる。
ナショナルトラスト的な発想があればって思うけれど、首都圏の土地は細切れ過ぎて、それを「有効活用」することが最優先だから、無理なんだろうねぇ。ほんとにうちのモミジの運命も私次第です。
富士山を更地にしようと思うひとはいないから、それだけは安心ね(笑)
家の住み心地って、建物だけじゃなくて、窓を開けた時に視界に入るものの価値が思うよりずっと大きいよね。