「食べることと出すこと」
 
 
サイドテーブルにカップが置かれた。
手にとってみると、温かい透明なスープが注がれていた。
え?これ飲んで良いの?もう?
恐るおそるカップに唇をつけて舌先をスープに触れる。
唇をなめるようにして味を確かめる。

人生で一番美味しいスープを味わった瞬間。
32歳だった。

少しずつすこしずつ、飲んだ。
鶏のスープかな、具はなにもなく脂も浮いていない。
ほんのりハーブの香りがしたかもしれない。
鶏のエキスだけ。なんて美味しいんだ。
なんて美味しいの。さすが美食の国。
飲み干した。


前日、虫垂炎の開腹手術をしていた。
術後24時間は経っていたけれど、こんなに早くスープがでるとは、日本とは違うんだなと思ったけど、言葉が通じないので確かめようもなくなすがまま、出されたのなら飲んで良いのだろうと思ったのだった。


数分後。
まだ余韻を味わっているくらいの、後。

なんの前触れもなく生温かい液体が身体から外に出てシーツを濡らした。

ほんとにほんとに、ほんと~うに。まったくnothing。
排泄するよ~というサインのようなものは一切なかったのだ。

このとき私の身体は外界に向けて開いている一本の管だった。
入れたものは出る。それだけだった。




人間には口から肛門までのトンネルがある。そこを食べ物の電車や車やバイクが通過していく。いいものも悪いものもまきちらしながら。
そんな物騒なものが、身体の中心にあいているのである。
その穴は、外界に通じている。胃腸は外界に通じているのだ。

ゆらゆら帝国というバンドの『空洞です』という曲を聴いたとき、
「俺は空洞」
「バカな子どもがふざけて駆け抜ける」
という歌詞に、ひどくひきつけられた。
もちろん、この空洞というのは、心のむなしさのようなことなのだろうけど、私にはもうそうは聞こえないのだった。      



ゆらゆら帝国、私も大好きだ。
まさかここで「空洞です」に言及されるとは思ってなかったけど。
外界に通じる空洞、それ知ってます。
実感したのは幸いにも一度だけだけど。





「食べて出すだけ」の人生は……なんて素晴らしいのだろう!

「飢えから、栄養不足による飢えを引いたもの」を体験した人はあまりいない。
点滴によって栄養は足りているのに、「喉」は何かを飲み込みたいと言い、「顎」は犬のように骨の形をしたガムを噛みたいと叫び、「舌」はとにかく味のするものを! と懇願してくるのだと著者はいう。
こうして、食べて出すことがうまくできないと、日常は経験したことのない戦いの場となる。

絶食後に始めて口に入れたヨーグルトが爆発するとは?
茫然と便の海に立っているときに看護師から雑巾を手渡されたときの気分は?
便が心配でひきこもり生活が続いた後、外を歩くと風景が後ろに流れていくとは?

食べて出すだけの日常とは、何かを為すためのスタート地点ではなく、偉大な成果であることが心底わかる傑作。
切実さの狭間に漂う不思議なユーモアが、何が「ケア」なのかを教えてくれる。
                 <Amazon 出版社コメント>




なにからなにまで interesting な読書でした。
身体(しんたい)というものの不思議を知ってるようで知らなかったな、と。

「私」の主人は、この身体なのだと。頭でっかちになったヒトは精神こそが主で身体はその容れ物くらいにしか考えなくなったけれど、そうじゃないと。
内澤旬子の「身体のいいなり」にも通じるけれど、身体こそが、私の主人なんだなと、改めて。





コメント

hana
2021年8月6日11:07

美藤さま^^

> 身体こそが、私の主人なんだなと、改めて。

偶然ですが最近、伊沢正名、湯澤規子両氏の「出すこと」に関しての著書を読んで人間の身体って正しく自然と繋がってこそあるべき姿だと思いました。

美藤
2021年8月6日19:38

伊沢正名さんと湯澤規子さん、検索してみました。面白そう!
さっそく「くう・ねる・のぐそ」と「ウンコはどこから来て、どこへ行くのか」探して見ます~(ワクワク

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