マルーハ・パチョンとアルベルト・ビヤミサル夫妻は一九九三年の十月、六か月におよぶ彼女の誘拐中の経験と、彼女を解放させるまでに夫がたどった経緯を本にまとめたらどうかと私のところに話をもちかけてきた。草稿がかなり出来上がった段階で、私たちは、彼女の事件と、同時期にコロンビア国内で起きていた他九件の誘拐事件とを切り離して扱うわけにはいかないのに気づいた。本当のところ、これは別個の誘拐事件が十件並行して起こっていたのではなく――最初はそう思われたのだが――、きわめて巧妙に選ばれた十人の人間がひとつの集団として、ひとつの誘拐団によって、たったひとつの目的のために誘拐された事件だったのだ。 (ガルシア=マルケスによる冒頭の謝辞)
実は、この冒頭の謝辞もガルシア=マルケスの仕掛けなのだ――と言われたらきっと信じてしまう。
はぁ~物語ることの巧みさ、息つく間もなく読み進めてしまった。
ルポルタージュの棚にガルシア=マルケスの名前を見つけて手にとった。本文の始まり、マルーハが誘拐されるシーンは映画のように画が浮かんだ。なにこれ、面白い!とその場で検索して、「犬の力」のリアル版とわかる。「犬の力」を読んでいたおかげで、複雑な背景がだいたいわかって迷子にならずに読めた。
事件の背景としては一九八〇年代の世界を席巻した大コカイン・ブーム、それによって急激に力を強めた密輸組織メデジン・カルテル、膨大なコカイン・マネーの急激な流入によるコロンビア経済の社会の混乱、メデジン・カルテルによる市場の独占に反発するその他の組織との抗争の激化、アメリカの圧力による取り締まり強化とその反作用としてのテロ事件の多発、治安の悪化による市民の不満を受けてコカイン密輸組織との対決姿勢を明確にした若い熱血大統領の当選、といった生の現代史がある。
・・・中略・・・
一九九〇年という年は、当選したばかりのガビリア大統領が、武力による摘発には限界があり、かえってテロの激化を招くという現実を前にして、密輸組織の投降を促すための司法取引の可能性を模索していた時期にあたる。つまり、投降して自分の犯罪を認めた者は法的に優遇する、と確約することによって、テロの収束と組織の解体を狙ったのである。取引の内容とは、海外(つまりアメリカ)からの犯罪者引き渡し請求に応じない(つまり、投降した者は量刑が累積されるアメリカではなく、一番長い刑のみが執行されるコロンビア国内で割引された刑に服する。一方、投降せずつかまった者は容赦なくアメリカに引き渡す)、本人および親族の安全を保障する、刑に服する場所、条件等に付いて交渉の余地を残す、などだった。
これらの優遇措置はすべて、究極的には、アンティオキア県の首府メデジンに本拠を持つ密輸組織、通称メデジン・カルテルの首領であるパブロ・エスコバルの投降を促すために検討されたものだった。 (訳者あとがき)
現代の日本で「誘拐」と言われてイメージするのと次元が違い過ぎる。
日本だったら戦国時代の話みたいだ。
司法取引の内容が桁違い。
法律を変えさせ、防衛大臣や警察庁長官を更迭させる。収監される場所は“刑務所”という名の宮殿。
誘拐された人たちというのは、この取引に見合う価値のあるひとたちだった。
マルーハの出自は代々著名な知識人を出した家系で、国営映画産業の取締役。救出に奔走する夫は国会議員。ほかに元大統領の娘で著名なジャーナリストとか。
この時誘拐された10人は8人が解放されて、エスコバルは投降し宮殿に移り国家に保護される。誘拐されていたひとたちは、よくぞ生き抜いたと思うし、救出までのやり取りは緊迫感があって、まあほんとにこの夫妻を主役にこのまんま映画にすれば、ハリウッド的ハッピーエンドだ。
エピローグの最後の最後に語られるシーンは、いや、いつかどこかのサスペンス映画で見たかもよ?と思うようだし。ここは、エスコバルの力を見せつけるようでゾッとしたし、ガルシア=マルケスのエンターティメントな物語力にも感心する。
これはノンフィクションです。
そして。
「誘拐」読みながらずっと思い出していた「犬の力」
ドン・ウインズロウは、「この取引に見合う価値のあるひと」ではないひとたちを描いていたなぁ、と。
「誘拐」でも解放の駆け引きの途中でたくさんひとが死んでいる。誘拐の現場で射殺された運転手、車のトランクで発見された弁護士、自動車爆弾で吹き飛ばされた数百人。
それからカルテルに関わることでしか生計を立てられない底辺のひとたち。
ウインズロウがこの本を読んでないはずはないと思うので、「誘拐」のメインストーリーでは触れられなかったひとたちの人生が心に残ったんだろうなと思う。
ともかく。
「誘拐」面白かった。
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