「カフカはなぜ自殺しなかったのか?」
2021年11月16日 読書 コメント (2)
このところ、僕は自分についてあまり書き留めていない。
多くのことを書かずにきた。
それは怠惰のせいでもある。
しかし、また心配のためでもある。
自己認識を損ないはしないかという心配だ。
この心配は当然のことだ。
というのも、書きとめることで、自己認識は固まってしまう。
それが最終的な形となる。
そうなってもいいのは、書くことが、
すべての細部に至るまで最高の完全さで、
また完全な真実性をもって行われる場合に限られる。
それができなければ
――いずれにしてもぼくにはその能力はない――
書かれたものは、その自立性によって、
また、かたちとなったものの圧倒的な力によって、
ただのありふれた感情に取って代わってしまう。
そのさい、本当の感情は消え失せ、
書かれたものが無価値だとわかっても、すでに手遅れなのだ。
<1911年1月12日のカフカの日記>
観て思ったこと、聴いて揺れたこと、触れて感じたこと、湧いてくる感情をなんとか書きとめたいと思うけれど、いつもいつもなにか言葉が違うと思う。
カフカでさえそうなんだ。いや、だから名を残すような作家なんだね。
――というか並べて言うことすらおこがましいの極みだ(汗)
「食べることと出すこと」が面白かったので、頭木弘樹の本を。
このカフカの言葉のあとに「言語隠蔽」という現象に触れている。
言語化することで、とても多くのものが抜け落ちてしまううえに、言葉で固定されたイメージだけが残ってしまい、元の像とはかけ離れたものになってしまいがちだという現象。
たとえば犯罪の目撃者に写真を選んでもらう時に、どんな顔をしていたか言葉で説明してもらったひとと、言語化なしで写真を見てもらったひとでは、言語化した人の正解確率がかなり下がる、とか。
恋人のどこが好きなのかを言葉で説明させると、説明しなかった(できなかった)カップルより半年後に交際続いている確率が低かった、とか。
いつもここに向かって言葉にしたい、言葉にしたいと悶々としているけれど、大事な核心に触れそうな部分ほど言葉にならないというのは実感してて(語彙が足りない、というのはもちろんなんだけど)、ただ、その名付けようのないもの、淡々(あわあわ)としたところが、心の、魂の、ふくよかさなのかな。
強いエネルギーをもった太陽の光があたると、消えてしまう朝霧のような。
この本にしても、なぜカフカが自殺しなかったのか、はっきりと結論を述べているわけではない。
けれどこれを読んでたら。
言葉に絶望しながらそれでも小説を書かずにはいられなくて、書き上げては「ここには本物の感情はない」とまた絶望し、出版の機会が訪れても「出版したくない」と本気で思い、繊細で、仕事にも結婚することにも、書くことにさえも絶望し続けて、その絶望を膨大な日記、手紙に書かずにはいられなかった面倒くさいひとカフカが、いらいらハラハラしながら、だんだん愛おしくなってくるのだ。
カフカが並外れた作家だったから、ここまで絶望と格闘する思いを書き続けることができたわけだけど、この矛盾に満ちて優柔不断で逃げ惑う心情は、誰の中にもあるように思う。たいていのひとは、悩み続ける苦しさに無理やり決断したり、うっちゃったりするのだけど。
絶望を手放さない才能、というのがあったのだなぁと思う。
絶望とがっぷり四つに組むんじゃなくて、勝負にでられぬまま逃げ惑いながらも土俵を割らない、みたいな。
コメント
この話題とは関係ないですが、私もコメントを拝見しました♪
もう一つご報告:今日、デパートの果物売り場で、個人的な今の関心事である花梨と柘榴が並んで売られていました(笑)
どちらもとても大きくてびっくり!
その上、柘榴の高い値段にもびっくり!
うちにあるのを売りに行こうかと思いましたよ(笑)
私の生活圏ではまだ見かけないですが食べたいなぁ。
で~も値頃感がねぇ~高級フルーツですよね~。
花梨は先日拾いに行ったんですがタイミング合わず収穫なしでした。