「目の見えない白鳥さんとアートを見に行く」
 
 
*第1章 そこに美術館があったから

Life goes on. 
――これ以上要約のしようのない想い。

お互いの体の機能を拡張し合いながら繋がれるということ
――何の話だったかな。「感覚」の実験のようなこと。目隠しをしてアテンドしてもらいながら砂浜(が望ましい)を歩いてみる。やってみたいな、と思ったんだけど。
「セラピスト」を読んだ後だったか。

彼は「わかること」ではなく、「わからないこと」を楽しんでいる
――読み始めてすぐに、目の見えない人に説明するのだからアテンドの語彙力とか言葉の解像度が重要になるのかな、と思ったけれどそうではない。

無知であることはいいことである。バイアスなく、ただ無心に作品と向き合える
――ちょっと私の音楽の聴き方がそうだ。


色は概念的に理解している
それぞれの色には特定のイメージがあって、それを(視覚ではなくその特徴的なイメージで)理解している
――白鳥さんの「描く」「描き直す?」ゴッホを見てみたい。
と思うのは、「視覚」にとらわれ過ぎてる?


*第2章 マッサージ屋とレオナルド・ダ・ビンチの…

自分には、目が見えないという状態が普通で“見える”という状態がわからないから“見えない人は苦労する”と言われても、その意味が解らなかった。
――「目が見えないなんて大変だなぁ」という先入観、偏見、、、私にもあったかも。あるな。これって、想像力がないよねぇ。。
自分が普段使っている感覚、センサーを手掛かりに世界の理解を組み立ててるから、通常モードだとそうなってしまう。そのひとがどんな感覚を駆使してるのか。齋藤陽道さんの本やTweetみても驚くことがいっぱい。五感揃ってるから高い感受性をもってるとは限らないね。


自動音声の抑揚のない声、早送りしているようなスピード。
――感情過多ではないほうがすっと脳に入る?


*第3章 宇宙の星だって抗えないもの

ボルタンスキ―回顧展
――https://momijimomiji.diarynote.jp/201908010147547171/
  ボルタンスキー、去年の夏に亡くなったのか。

人間は多くのものと闘えるけれど、時を相手には闘えない(ボルタンスキー)
 


*第4章 ビルと飛行機、どこでもない風景

彼はその言葉にならない「間」すらも愛する。思わず漏れ出す「ああ……」というため息のなかにもさまざまな思いが流れその即興の音色を楽しんでいる。
――気配。DIDに参加した時。手を繋ぐことや声、言葉が視覚を補完したのは確かだけど、みなで立ち止まっている時に、隣のひとが背を向けたとか、こちらに顔を向けたとか、微かな息遣いと衣擦れくらいのこそりとした気配すら感じ取れたのを思い出した。

911の跡地。モニュメントとショッピングモールとオーディオアーカイブ。
――911の跡地の再開発のコンペ。安藤忠雄が提案した「地球の表面を模した芝の緩やかな台地」が記憶に残っている。結局は「NYCのスカイラインを元通りにしなくてはテロに打ち勝ったことにならない」的な意見が多数で、今のような超高層ビルになったという、アメリカらしいなと思ったの思い出した。日記に書いたと思うのだけど、どこ?
オーディオアーカイブ、聴くとしたら準備が要るだろうな。豊島の心臓音ですら、眩暈がしたし心臓が早くなるのを感じたから。911の音声をサラウンドで。想像するだけで首の両側がきゅううっとなる。

ビルと飛行機、となったらどうしても911を思い出す。テレビ画面の中の、強烈な映像記憶。見た。見た?あれはほんとうに見た、のか?



*第5章 湖に見える原っぱってなんだ

目の見える人も、実はちゃんと見えていない
セレクティブ・アテンション 認知バイアス

眼は意味あるいは記号に感応しているのであって、そこから「見る」ことの野生は脱落している(鷲田清一「想像のレッスン」)

「印象派」
――印象派の絵。なんとなく当たり前に見慣れてしまっているので、光を描く技法の革命といわれても、へぇーそーなんだーへぇー。好きか嫌いかっていったら、特に?別に?部屋に飾ろうとは考えないかな。



*第6章 鬼の目に涙は光る

*第7章 荒野をゆく人々



*第8章 読み返すことのない日記

ヂョン・ヨンドゥ 地上の道のように
2014年11月8日[土]~ 2015年2月1日[日]@水戸芸術館現代美術ギャラリー

https://www.youtube.com/watch?v=dUz8X_t3ohY
ワイルド・グース・チェイスの動画あり。フルで観てみたい。
ピアノ・小曽根真

wild goose-chase  無駄な追跡 捕まえられないものを追いかける
 


*第9章 みんなどこへ行った?
――ディスリンピック2680が見たいのだけど、図書館の本なのでカバー裏を見ることができない。


*第10章 自宅発、オルセー美術館ゆき

哲学者の青山拓央、著書の中で「すこし恥ずかしいのだが、あまり共感を得られないであろう自分の癖をひとつ書いてみる。日常生活の中でふと、周囲に聴こえないくらいの声で『今』とつぶやく癖を私は持っている」と告白する。
「その作業において、私はいわば、自分の人生に時間的なしおりを挟んでいる。ここまで読んだというしるしで本にしおりを挟むように、ここまで生きたというしるしで人生にしおりを挟むわけだ。そんなことがわざわざ必要なのは、人生全体をどこまで生きたかがなんとなくボンヤリしているからだが…」(「心にとって時間とは何か」)
――第8章で白鳥さんが「読み返すことのない日記」のように写真を撮り続けていることを思い出す。シャッターを押すことで『今』のしおりをはさんでいるのではないか。
249pの言葉を書き写してから白鳥さんのカメラについて書いたけど、数ページあと252pに同じこと書いてあった。(読みながらメモしてる)
白鳥さんがバーチャル鑑賞に興味を示さないだろうことはわかりきってたんじゃないかな。第4章で抜き書きした部分からも分かる。著者もわかってないはずない。敢えて書いてるんだろうけど、この章はちょっとあざとい。コロナで美術館という空間を共有することが難しくなった時期だから、な。

彼はかなり本気で「いま」ここにいる「自分」しか確かなものはないと感じているのかも知れなかった。
――5分間宇宙のこと、時間は未来から過去へ流れるという物理理論、時間の記憶、過去の書き換え。
ほんとうに「今」だけなんだよなぁ。バーチャルじゃダメだって、この2年で良くわかったよ。2年前の春先から、ライヴの配信をやるアーティストも増えて、初めは観て慰められたような気にもなったけど、いつの間にか観なくなってた。
場の力って替え難い。たとえ表情も見えない2階席からだったとしてもそこに、今、チバがいるってことは絶対。たとえ会話はしないようにしたとしても目の前に友がいるならそれだけで場の空気は違う。
「存在」ってイコール「今」なのか。



*第11章 ただ夢を見るために

22年もの間、ふたりはこの日を夢見ていたのだろうか?
2010年ニューヨーク近代美術館・MoMA  マリーナ・アブラモヴィッチ
――目の前にいる、とは、こういうことだ。



*第12章 白い鳥がいる湖

白鳥さんが幸せを感じる時ってどんな時?
その幸せはどこにあると思う?
――うん。うん、ほんとに。



……………トリアエズ、オシマイ。


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