目玉焼きのつづき。
「家族ゲーム」の目玉焼きちゅうちゅうは1968年にでた「女たちよ!」の中の一編で「目玉焼の正しい食べ方」として書かれてる。
……というのをWikiで読んで、「女たちよ!」をひっぱりだす、、、つもりが見つからずAmazonで買う。この本買うのこれで3回目。あ、友人の娘に買って渡したことあるから4回買ってるのか。あ、違う?持ってたのをあげちゃって、また読みたくなって買って、引っ越しでどこ行ったか分からなくなり、、でやっぱり3回目か、そっか。
もとは文芸春秋からでてたんだけど、今回買ったのが2005年に新潮からでたもので、池澤夏樹の解説が読めて良かった。知って買ったわけじゃなくて、たまたま安かったからなんだけど。
それだけ買い直してるのに、内容をあまり(ほぼ?)覚えていない。
ただ初めて読んだとき、大学生の終わりごろだったけど、大人になりたいと思い大人になろうとしている都下育ちの戦後核家族の庶民の娘に、憧れてみる甲斐のある大人的なスタイルを見せられたんだろうと思う。
いま読みかえして。
アル・デンテとかアボカドとか、いまならだれでも知ってる。
フランスパンは青山5丁目のピーコックが美味いとか、いまなら言わないだろう。
(いや、3周くらいまわってやっぱり青山ピーコックなのかもしれない。スタイルとして、そういう方がツウだと思われるのかもしれない)
で、だから古びてるのかというと、そんなことない。
3回買って読んでも面白いって言うのは、すごいことかもしれない。
これが書かれてから50年以上経ってる。
これを書いた30代前半の伊丹十三の年齢を大きく越えてるけど、ここに書かれてることのいろいろが身につかぬままだ。
伊丹十三という才能。
彼が身につけてきた教養っていうのは生まれ育ち、資産の後ろ盾あってのことではあるけれども、伊丹十三だから身についたのだと言えるし。
軽い、ユーモアにあふれたエッセイ、と今読む人は思うかもしれない。ちょっとキザで嫌味、と感じる者もいるだろう。よくある本だよ、これは。
たしかに、この種の文章に出会うことは珍しくない。しかしそれは今だから言えることであって、最初に刊行された1968年にはこれはまったく新しい、挑発的な、驚くべき本だった。ぼくたちは一種まぶしいものを見るような思いでこの本を手にした。笑って読み、膝を打ち、あこがれ、勇気づけられた。
なにがそんなに新しかったのか?まずは自信に満ちた個人主義、趣味を中心に据える人生観、食物や酒や車についての粋なセンス、(つまりは)消費の喜び、ヨーロッパを起点にしたホンモノ指向。 池澤夏樹:解説より
この本が世に出て半世紀過ぎたけど、伊丹十三に追いつく人はいたかな。
パルジャミーノやニース風サラダくらいは覚えたかもしれないけど、それだってホンモノではないかもしれないのが悲しい。
この本の中で、流行が循環するサイクルについて服装学者ジェイムズ・レイヴァというひとが
10年前は 下品
5年前は 恥知らず
1年前は 大胆
当時 スマート
1年後 みすぼらしい
10年後 醜悪
20年後 噴飯もの
30年後 滑稽
50年後 風変わりな
70年後 魅力的
100年後 ロマンチック
150年後 美しい
と言ってる(と紹介されてる)けど、なるほどなぁと。エッセイなんかにも当てはまるかもしれない。
20世紀中はこの本もスノッブと思うひともいたかもなぁと思う。友人の娘にあげた頃なんて、もしかしたら一番ピンとこなかったかもしれないなぁ。
でも50年たったいま、風変わりでカッコいい大人がいたんだなぁと読まれるかも。
1000年後くらいには、「徒然草」や「枕草子」並みの随筆として読まれるかもしれない。
あ、そうそう、目玉焼の正しい食べ方。
「彼は皿に口を近づけて、真ん中の黄身を、ぺろりと吸いとってしまうのですが、こんなことが人前で許されるべきものではありません」
映画「家族ゲーム」の目玉焼きちゅうちゅうは伊丹十三の存在なくしては許されない絵面ですね。
コメント
もちろん、私も読んだぜよ〜。かっちょええなぁーと思って。
そうだそうだ。目玉焼きの食べ方ってあったねぇ。
私もどっかにあるはずだけど、見つけられる気がしないし、買い直すかな。
年上のまさに「本当の大人」という存在を求めてその昔読んだ気がするなぁ。
突然亡くなっちゃったよなぁ・・・・・・、いくつ年上だったんだろっとWikiを見たらその死について衝撃の推察があって、今ギョッとしていたところです。知らなかったー。ぬぁんと。
なんにせよそうそういない才人だったと思うから、惜しいよねぇ。