「飼う人」

2021年5月2日 読書
「飼う人」
 
 
しあわせになることって、そんなにも難しいことなのかぁ。


「命」で読んだ柳美里のこの言葉は何度か引用してるけれどやっぱりまた書いてしまう。
「幸福というのは、自分を説き伏せ納得させて実感するものではない。なにも考えなくても、感じるものなのだ。(中略)不幸というものは状態で、一度居座ったら動かすのは困難だが、幸福は状態ではなく、瞬間の中にしか存在しない。一瞬一瞬煌めいて消え去るもののような気がする」

ほんとうにそうだろうなぁ、と思う。
瞬間をとどめておくことはできないから、しあわせではないかもしれない連続する時間をどう“あやして”生きていくか、なのかな。



だけど、この小説には幸せな瞬間は、カケラもない。あやすなんて、生半可なことじゃどうしようもない。
なんだか主人公の吸う空気だけが不幸に汚染されてしまってるみたいな。息苦しい。
柳美里だからね、油断はしないで読んだけど。こんなに不幸な状態を書き連ねる不幸への執着はすごいな。

4つの短編の主人公はみな生き物を飼うひとなんだけど、蛾や蝶の幼虫に両生類。飼育することを楽しむでもなく、成り行きで飼い始める。毛むくじゃらの温かい命じゃなくて、水槽のガラス越しというその距離に手を出すとこがなにか自分の不幸の確認作業みたい。


主人公たちに特別な結末は訪れないし、救いに繋がるようなことさえも微塵もない。不幸な空気を充填した水槽の中のいきもの、主人公をガラス越しに眺めてるのが読者。

「飼うひと」が2017年の作品で小説としては一番新しいもの。
柳美里自身は、原発事故という動かしがたい未来永劫続きそうな大きな不幸の中に身を置くことで、ふくよかさを纏いはじめたような気もするけど、彼女の描くものはやっぱり“全不幸”。

嫌いではない。惹かれるものがあるから読むんだけど、きっと、水槽の中の物語で、そこから這い出しては来ないと思ってるから読んでいられるのかな。
油断はするまい。

柳美里には、不幸文学を極めていただきたい。
ときどき覗きに行きます。怖いもの見たさで。




   ・・・

あ、そうか。
幸せは瞬間だから、しあわせに「なる」って不可能なのか。







「複眼人」

2021年4月27日 読書
「複眼人」
 
 
その島の次男は、生まれて180回目の満月を迎えると島を出なければならない。
その島はあまりにちいさいので。島人の数が島の木の数を越えてはならないと神に命じられている。

100回目の満月の後、少年はタラワカと呼ばれる舟を造りはじめる。
月の数が満ちた時、10日分の水だけを積んで、戻ることのない航海に出る。
アトレもそうやって海に出た。愛する少女にもらった話笛を携えて。



私たちが迎えるほんの少し先の未来に生きたひとたちの物語。
起承転結のあるストーリーが展開されるわけではなく、大きな変化がゆっくりと訪れようとしている時を過ごしているひとびとの人生が描かれている。“死”に溢れているのだけれど、もっと大きな生命力を感じる世界観。


 どこに行っていたんだい?
 なにを見たんだい?
 なにを聴いたんだい?
 だれと会ったんだい?
 これから何をするつもりなんだい?

ハファイの歌うこの歌は、アトレの、トムの、トトの、アリスの冒険の歌なのかもしれない。



島の知恵者、掌海師が言う。
「音は誰にでも通じるものだ。すべての波音が人間の心に届くように」

台湾先住民のハファイの歌声。
「その歌声は、歌そのものを聴く者の体の奥深くへと染み渡らせる。彼女の歌声は風に漂う種となり、その種がいつ自分の心の奥底に落ちたのかもしらぬまま、台北に戻ってMRTに乗っているときにふと、ハファイの歌声が、車両内の喧騒を突き抜けて心に蘇る。車窓の外を眺めながら突然涙を流す人がいたならば、そんな者たちかもしれない」





ファンタジーというよりも、いつか神話になるかもしれないような、ある時の物語。ハファイの歌を、2016年に聴いたなぁと思い出した。





呉明益:1971年、台湾・台北生まれ


「春の消息」
 
  
 
いい書名だなぁと思う。
この書名に惹かれて手にとった。



  生きているのは喜びなのか
  生きているのは悲みなのか

中原中也の詩を思い出す。

書名についてはなにも書かれてはいないけれど、読んでいけば「春の消息」という以外に名付けようがないように心に落ちる。



春が苦手なのは、なぜだかわからないけれど、どうしてもカナシイ、サビシイという感情がうっすらと春のほこりっぽい霞のように気持ちの中に混じって抜けないから。個人的に、春に辛い思い出があるというわけでもないのに。中島みゆきの詞ではないけれど「春なのに…」という心持が一番先にうかんでくる。

そして、10年前の3月11日を境に、どうしようもなく春はサビシサに霞み続けている。でもそれはそれでいいとも思う。だって、どうしようがある?




   ***

柳美里が3.11のあと南相馬に転居したとき、なぜなんだろうと思ってた。
南相馬に書店を開いたり、相馬のラジオ局で番組を続けたりするのを読んだり聴いたりしながら、それまで私が持ってた「私小説作家」というイメージと少し違う気がして。
この「春の消息」で柳美里が「人は時間的にも空間的にも限定的な存在ではあるけれど、時空を超えて繋がる縁もある」と書いている。


柳美里のお祖父さん、「八月の果て」の主人公。
17年前に看取った東京キッドブラザーズの東由多加。
「春の消息」の案内人となる社会学者の佐藤弘夫。
南相馬で出会った大谷派別院院代とその孫娘、柳美里の息子。


それから、たくさんの、死者。



柳美里と佐藤弘夫の霊場を巡る東北の旅を読みながら、ひととひとが< 縁 >を繋ぐときには、死者と結ばれた深い< 縁 >もそこに介在してるのかもしれないと思ったりした。
霊場というと、暗い気配の場所、怖い場所と思ってしまうけれど「霊場で生者を待ちわびる死者たちは、わたしたち生者を迎え入れ、その悲しみを優しくゆすってくれ」る存在なのだとも。
死者と生者の< 縁 >については若松英輔が、< 縁 >を繋ぐ<あわい>の場については安田登も、述べていたなぁと思い出して。

私たちは、死者と無縁であろうとしすぎているのかも。
生者の数より死者の数の方が、何百倍、何千倍も多いのだから、この世界が生者のものだなんて思わないほうがいいのかもしれない。




   ***

柳美里は、なにかとてもふくよかなひとになったような気がする。
編集者が「若い頃の柳美里は原稿を1枚持った浴衣を着た幽霊みたいだった」と評していたというのを読んだ。西原理恵子は柳美里をストリッパーと言っていた。私も、ここまで書くかというその赤裸々さに畏怖のようなもの感じながら読んでいて、その言葉の強さが好きだけどしばらく遠ざかっていた。

いま「JR上野駅公園口」が話題になってるけど、読んでみようかな。
油断はできないけど。






「里山奇談」

2021年2月25日 読書
「里山奇談」
 


野山を渉猟する”生き物屋”が蒐集した、里山の妖しく不思議なお話。
神の棲む山と人間の暮らす地、その境界に広がる里山――。
そこにはさまざまな生命とともに、不思議が息づいている
野山を渉猟し、昆虫や動植物をこよなく愛する“生き物屋”が集めた、里山の奇しき物語。

■土地の人は誰でも知っている“立ち入ってはならない”場所。人が住みたがらない場所は、なぜ封鎖されないのか?――「ヱド」。
■川岸の暗闇に静かに明滅する蛍の光。たくさんの蛍が飛ぶ夜を示すことばに秘められた、ある風習があった。――「ほたるかい」
■遠い昔、参列した”狐の嫁入り”。幼い自分と美しい花嫁が両端を持つ綱を離すまいとした記憶。だが、母の話で意外なことが判明する。――「山野辺行道」
■とある国際的なイベントのため道路交通網の整備が始まったときのこと。山を削ると祟られると年寄りたちが騒ぎだした。やがて奇妙な事故が頻発しはじめる。――「蛇の道」
■ダムに沈んだ小さな集落。かつてそこには、決して入ってはならぬ“湯”があった。その湯は“罪を犯した者”が判別できるというのだが……。――「カンヌケサマ」

戦慄するのになぜかなつかしく、愛おしい。里山の奇妙な話から、日本の原風景が立ち上がる……

        KADOKAWA HPより


 


小泉八雲がにっぽんの怪異を聴き集めて記したような、宮部みゆきがお話のネタにしそうな。なにかとてもにっぽん的な。
雑木林の大きなクスノキの下で読むのにちょうどよかった。
そんなにひどい悪さはしなさそうな臆病な妖し(なかにはちょっと危険そうなのもいるけど)にっぽん人は、こういういのちやいのちのないモノと近しく生きていくんでよかったのに、って思う。
いまのにっぽん人じゃ、ちっちゃな妖したちは怖くてでてこれないかもしれないね。
 
 
 
 
 
 
 
 

「日本沈没」

2021年2月23日 読書
「日本沈没」
 
 
なんだってまたこんなカタストロフィ小説を読むんだろう。
1973年の書き下ろし。半世紀近く経って、阪神大震災や東日本大震災を体験して読むほうがうっすら怖いかもしれない。





久しぶりに『日本沈没』の原作を読み返した。心なしか心拍数が早くなり、どんどん本に引き込まれてゆくのを感じる。2011年の東日本大震災のゆれを東京出張中に体感し、テレビの映像に目が釘付けになったときの感覚に似ている。大学で地震や火山の研究をしているという職業柄、日本や海外の大地震や火山噴火が発生すると自分自身で解析をしないまでも、夢中で情報を集めることが多い。本書を読むとそのときの感覚がよみがえり、頭のどこかで現実に起きていると錯覚してしまう。本を閉じると我に返り、安堵を覚える。小説が執筆された1973年から50年近い時を超えて未だ価値を失わないことが実感される。
  名古屋大学大学院環境学研究科
   地震火山研究センター教授・山岡耕春     
               解説より





半世紀経って、科学技術、観測技術は進歩したけれど小説に描かれているようなカタストロフィは何度も起こってる。むしろ原発事故やコロナ禍があって、今の方が破局要素多いかもしれない。沈没こそしないけど。
日本が沈没する――センセーショナルな設定だけど、この小説はパニック小説ではないんだよね。




書き始めた動機は戦争だった。本土決戦、一億玉砕で日本は滅亡するはずが終戦で救われた。それからわずか20年で復興を成し遂げ、オリンピックを開き、高度経済成長の階段を駆け上がって万博。日本は先進国になった。豊かさを享受しながら危うさや不安がいつも脳裏にあった。日本人は高度経済成長に酔い、浮かれていると思った。あの戦争で国土を失い、みんな死ぬ覚悟をしたはずなのに、その悲壮な気持ちを忘れて、なにが世界に肩を並べる日本か、という気持が私の中に渦巻いていた。のんきに浮かれる日本人を、虚構の中とはいえ国を失う危機に直面させてみようと思って書き始めたのだった。日本人とは何か、日本とは何かを考え直してみたいとも強く思っていた。
     『小松左京自伝』 小松左京





考えずにはいられないよね。世界各地に逃れたひとびとは、”なにもの”なのかって。日本人である、というアイデンティティをどうやって維持して世代を繋いでいくんだろうと。

刻々と崩壊してゆく37万平方キロメートルの日本列島。この列島の自然から切り離されたひとびとはまだ日本人なんだろうか。




いま私は、夢をみているようです。
人々の心、山、川、谷、みんな、あたたかく美しくみえます。空も、土地も、木も、私にささやく。「お帰りなさい」「がんばってきたね」
だから私も、うれしそうに「帰ってきました。ありがとう」と元気で話します。




これは曽我ひとみさんが、北朝鮮から帰国した時に読み上げた言葉。
これを聞いたとき、胸を突かれた。これが日本人の心象の核心なのではないかと思う。「日本沈没」を読みながら、曽我さんのこの言葉を思い出してた。




日本人は、人間だけが日本人というわけではありません。日本人というものは……この四つの島、この自然、この山や川、この森や草や生き物、町や村や先人の残した遺跡と一体なんです。日本人と、富士山や、日本アルプスや、利根川や、足摺岬は、同じものなんです。このデリケートな自然が…島が…破壊され、消え失せてしまえば…もう、日本人というものはなくなるのです……
           「日本沈没」より


なんかね、すんなりと頷いてしまうんだよね。日本列島の四季、花鳥風月と同化して生きたいような心持と、すべての天然自然のそこここに神を見ようとしてしまう精神性が自分の中にもあるなと感じるから。



日本列島には沈没しないでもらいたい。





ローレンス・ブロック本
 
 
ローレンス・ブロック絡みの単行本が2冊、出ていた。

「短編画廊」はエドワード・ホッパーの絵をモチーフに綴られた短編集。17人の作家がホッパーの絵からインスパイアされた物語を書いている。
ホッパーの作品には「絵の中に物語があること、その物語は語られるのを待っている」と感じたブロックが作家たちに呼びかけて編んだ。ホッパーの絵も18葉が載っていて、確かに物語を想像したくなる絵だ。
ブロックが選んだのは、カフェの丸テーブルでコーヒーカップに手を添えて物思いに耽っている帽子を被った女性の絵。「Automat 1929」
「NIGHTHAWKS 1942」はもちろんマイクル・コナリー。ボッシュが主人公ですよ。
まだ全部読んでないけど、お正月休みにぽつぽつと読むのに良さそう。



「石を放つとき」は、待ってましたのスカダーの新作、、、なんだけど。
文庫などに収録されてる9つの短編と未収録の2編に、中編の初出の表題作を単行本にまとめたもの。
この中編「石を放つとき」ものすごいデジャヴ感があるんだけどなぁ。事件のヒロインが売春婦であることなどは、初期の頃からよくあるパターンなんだけど、若い彼女と、エレインとマットの三人でベッドを共にする展開とか、う~ん、絶対どこかで読んでるんだよなぁ。でもアパートメントの管理人は初めて会う(私がね)キャラクターな気もするし、う~ん。
ミックやTJやレイ・グルリオウ、レイ・ガリンデスいろんなキャラクターを思い出して語りながら進む話で、シリーズのまとめにしては半端なんだけど、、う~ん、、まぁ、スカダーの近況と言うことでいいか。ローレンス・ブロックの語りはやっぱりとても好みだし。

それにしてもマット、幾つになったのかしら、、って考えてびっくり。
え~おいおい、そのお歳でその展開?ま、いいけど。

だけど、本編はもう出ないのかなぁ?「すべては死にゆく」のラスト、イニシャルABのあの男は逃げおおせてるんだよね。絶対に続編ありの展開だと思って、ずっと待ってるんだけど。「すべては死にゆく」2006年の発行なの?ひゃー14年も待ってるのかぁ。ローレンス・ブロックも82歳だよ。わぁあ、早く書いてくださーい!回想物も読みたいんだけどなぁ。




「石を放つとき」という作品からははなれるんだけど。
後ろに載ってる日本の作家Dの解説読んでて、なんだかガッカリしちゃった。
エレインとスカダーの会話に「ほっこりさせられる」って書いてて。「ほっこり」かぁ、って。
スカダーシリーズは会話が良いのでそこに触れるのはわかるんだけど、「ほっこり」ってその単語の選び方なんだかなぁ、だよ。ほっこりなんて、私みたいな一般読者にだって浮かぶ言葉だし。別にもっともらしい難しい単語使えとは言わないけど、もっと作家らしい表現はないのか?
それに、そこ「ほっこり」ですらないと思うし。Dがほっこりしたんなら、そうなんだろうけど。それ、解説?ま、いいけど。


この休みに既読の短編をいくつも読み直したら、またシリーズ再々再読し始めそうだ。それもいいけどね。

しかし、みんな歳取ったねぇ。。。



すべては老いゆく、すべては死にゆく。
真理ですね。







「 11/22/63 」
 

たられば。
スティーブン・キングの時間SF。
エンターティメント小説の常套的アイデアだけど、「もし、ジョン・F・ケネディ暗殺を阻止できたら」というのに興味を惹かれて読んだ。

暗殺された若き大統領はいまでもアメリカで愛されていて、ケネディが任期を務めた期間はアメリカの最も輝かしい2年半と思われているらしい。アメリカ人の王子様なんだろうなー。若くして非業の死を遂げたハンサムには敵わないってとこあるだろうけど。

キングは47年生まれってことだから、16歳のときに起きたケネディ暗殺事件は記憶してるだろう。
きっとハルバースタムの「ベスト&ブライテスト」も読んでるだろうから、アメリカの中の「最良にして最も聡明な」はずのひとたちがベトナム戦争の沼にアメリカを沈めたのも知ってるだろう。

キングがケネディをどう評価してるか。なるほど、と思う。



小説に描かれる60年前後のアメリカの暮らし。
これがなかなか良くて。
誰もかれもが煙草を吸ってるし、ポリティカル・コレクトネスなんて微塵もなくて、でもポニーテール揺らして In the Mood を踊って恋に落ちるにはもってこいの空気で。2011年から旅立った主人公が街をひとを愛してしまう気持は伝わってくる。
スティーブン・キングが思春期を過ごしたこの時代を愛してるのも伝わる。

ケネディがすべてのアメリカ人から支持され愛された大統領と言うわけではないことも。アメリカがどれほどソビエトを嫌っていたか、キューバ危機がどれほどアメリカ人を恐怖に陥れたか。そうだったのか、と思う。




スティーブン・キングを読むのは初めて。
むかーし、モダンホラーがブームになった頃に一冊手に取って、読み進められなくて挫折したことがあって。シャイニングだったかな?

映画化されたのはかなり観てて。
「デッド・ゾーン」なんかかなり好きだし。クリストファー・ウォーケンが良かった。「スタンド・バイ・ミー」も。ああ、リヴァー・フェニックス!

また挫折するかなと思ったけど、読みやすかったし面白かった。
上下巻1000ページ超すけど、さくさく読めた。
たまにはこういうエンターティメント小説も良いな。









「チェルノブイリの祈り」
 

1986年4月26日、午前1時23分58秒、チェルノブイリ原発第四号炉が爆発。
10年後の1996年、スベトラーナ・アレクシェービッチ「チェルノブイリの祈り 未来の物語」執筆。



――この本はチェルノブイリについての本じゃありません。チェルノブイリを取りまく世界のこと。私たちが知らなかったこと、ほとんど知らなかったことについての本です。見落とされた歴史とでもいえばいいのかしら。私の関心をひいたのは事故そのものじゃありません。あの夜、原発でなにが起き、だれが悪くて、どんな決定がくだされ、悪魔の穴のうえに石棺を築くために何トンの砂とコンクリートが必要だったかということじゃない。この未知なるもの、謎にふれた人々がどんな気持ちでいたか、なにを感じていたかということです。チェルノブイリは私たちが解き明かさねばならない謎です。もしかしたら、二十一世紀への課題、二十一世紀への挑戦なのかもしれません。人は、あそこで自分自身の内になにを知り、なにを見抜き、なにを発見したのでしょうか?自らの世界観に?この本は人々の気持を再現したものです。事故の再現ではありません。
以前何冊か本を書きましたが、私は他人の苦悩をじっと眺めるだけでした。今度は私自身もみなと同じく目撃者です。私の暮らしは事故の一部なのです。私はここに住んでいる。チェルノブイリの大地。ほとんど世界に知られることのなかった小国ベラルーシに。ここはもう大地じゃない。チェルノブイリの実験室だといまいわれているこの国に。ベラルーシ人はチェルノブイリ人になった。チェルノブイリは私たちの住みかになり、私たち国民の運命になったのです。私はこの本を書かずにいられませんでした。
   < 中略 >    
何度もこんな気がしました。私は未来のことを書き記している…。 

                 スベトラーナ・アレクシェービッチ


 
 
 

スベトラーナ・アレクシェービッチを読もうと思ったのは、8月に、「ベラルーシの大統領選挙のあとアレクシェービッチが拘束された」というニュースを読んで。

ただただ読み続けた。
感想……?そんな言葉、出てこない。目についたところを書き写すしかできないよね。以下、記憶代わりに抄録。




*私はこわい。愛するのがこわいんです。フィアンセがいて、戸籍登録所に結婚願をだしました。あなたは、ヒロシマの<ヒバクシャ>のことをなにか耳になさったことがありますか?原爆のあと生きのびている人々のことを。かれらは、ヒバクシャ同士の結婚しか望めないというのはほんとうですか。ここではこのことは話題にならないし。書かれない。でも、私たちチェルノブイリの<ヒバクシャ>はいる…。

*もう二年も息子といっしょに病院から病院へとわたり歩いています。チェルノブイリのことを読むのも、聞くのもいや。私はすべてを見たんです。
病室で小さな女の子たちが人形ごっこをしている。女の子たちの人形は目を閉じて、死にかけているんです。
「どうしてお人形さんは死にそうなの?」
「ここの子なんだもん。ここの子は生きられないの。生まれたらね、死んじゃうの」
私のアルチョムカは七歳、でも五歳にしか見えない。「ママ、ぼく、もう死にそうなの?」
この子を死なせはしません!

*ひとりひとりが自分を正当化し、なにかしらいいわけを思いつく。私も経験しました。そもそも、私はわかったんです。実生活の中で、恐ろしいことは静かにさりげなく起きるということが。

*医者にいわれていました、夫は助からないと。夫は白血病、血液のがんです。発病したのは、チェルノブイリの汚染地からもどって二ヵ月後でした。十五キロ圏内で、干し草を集め、ビートを収穫し、ジャガイモを掘ったのです。
夫が病気になるって知っていたら、私、すべてのドアに鍵をかけて、戸口に立ちはだかったわ。十個も鍵をかけたと思うの。

*あなたが私たちのことを書かないほうがいいんじゃないか、そう考えることもあります。そうすれば、これ以上私たちが恐れられることもないでしょう。がん患者の家では、恐ろしい病気のことは口にしない。終身刑の囚人の監房では刑期のことはだれもいわないものです。

*あなたはお忘れなんですよ。当時、原子力発電所は未来だったのです。われわれの未来だったのですよ。

*私たちになにが起きたのか?私たちの前になにがあらわれたのか?もう一度書きます。私たちに起きたことは、コリマよりも、アウシュビッツよりも、ホロコーストよりもなにかもっと恐ろしいことです。でも、我が国の知識人たちはどこにいるのでしょう?作家や、哲学者は?彼らは、どうして口を閉ざしているのでしょう?

*この放射能が悪いの、それともなにが悪いの?放射能はどんなものなの?もしかしたら、いつかそんな映画があったの?あなたは見なさった?白いの、それともどんなの?どんな色?色がないんなら、神さまのようなもんだね。神さまはどこにでもいなさるが、だれにも見えない。おどかすんだよ。でも、庭にはリンゴがなってる。木には葉っぱ、畑にはジャガイモがある。チェルノブイリなんていっさいなかったんだと思うよ。でっちあげよ。住民はだまされちまったんだ。

*みんなのために命を投げだしてくれ…だいたいこんな命令はあっちゃならないはずなのに、こんなことはだれも書かないんです。原子炉にまく砂のように、ぼくらはあそこにまき散らされたんです。


 
 

この本の出版から15年後、チェルノブイリ事故の25年後の<未来>に、福島第一原子力発電所がメルトダウン。福島はカタカナの<フクシマ>になってしまった。<ヒロシマ><ナガサキ>に続く、三つ目の<核>の惨禍を受けた町の名前になってしまった。

これは、どんな<未来>よ?

それから、まもなく10年後の<未来>を迎える日本では、原発事故で福島県を離れて県外へ避難しているひとが2020年9月現在、29,516人。事故の汚染水は太平洋に放出し、除染土は再利用をするという。本気? 原子力発電所は再稼働の準備を進め、新設さえ検討するという。新設!核兵器禁止条約に名を連ねる気もない。

これはどんな<未来>なんだ!


日本には<フクシマ>を語るスベトラーナ・アレクシェービッチはいない。
それが<現在>の日本。









「パチンコ」
 
 
アメリカで2017年に出版されて既に何ヵ国語にも翻訳されているのに、日本では出版のめども立っていない――というトピックが先に流れてきて知った作品。ミン・ジン・リーの「パチンコ」

これを、いま出せない日本の出版社には矜持がないとか、出版言論に関わる日本の病理みたいに言われてるのを読んでいたので、いったいどんな内容なのだろうと思ってた。タイトルに象徴されるように、日本の闇社会の、アンタッチャブルな部分を白日に晒しているのか。痛烈な日本批判が書かれていて、朝鮮半島に関わる日本の過去の罪を償うつもりで読むしかないのか、と。

そんなことはなかった。





フニが二十七歳になった一九一〇年、日本が大韓帝国を併合した。無能な特権階級、無責任な支配者層が盗人に祖国を譲り渡したところで、倹約家で辛抱強い働き者の漁師夫婦にそれを憂えるゆとりはなかった。

  *

若き牧師が下宿屋に現れて病に倒れる半年ほど前、夏が始まろうとするころ、ソンジャは市場に新しく来た海産物の仲買人、コ・ハンスと出会った。(1932年)

  *

ソンジャとイサクの手続きは問題なく終わった。必要なものはすべてそろっている。役人も文句のつけようがなかった。パク・イサクとその妻は、渡航を許可された。(1933年)
 



釜山沖合の島・影島から16歳で大阪に渡った賢く慎ましやかなソンジャと彼女のファミリー・ヒストリーとして読んだ。
ソンジャの父母、夫、義理の兄姉、息子たち、孫。

父母の娘として暮らした影島の、貧しいけれど温かな日々の様子が心に残る。
日本で“在日コリアン”として生きる4世代の、アイデンティティのグラディエーション。
母国と祖国、故郷、国籍、民族、文化、支配と被支配、差別。

この小説の中で描かれていたもので、日本で“出版を躊躇う”ようなものは見当たらない。英語で書かれたコリアンの物語を翻訳する時に、過剰な配慮を持って大きく書き換えたり、削除したりしたのでなければ。
なぜ、あんな前評判がたってしまったのかな。日本人が、コリアン世界に対して後ろめたい思いを抱いているからなんだろう。
 


在日3世の友人と、この本の話をした。
彼女自身はまだ読めていないということだったのだけれど、ハングルのブック・カフェでずっと話題になっていて、日本語で翻訳されるのを待っていたのだけれど、英語版を読んだコリアンのレビューを読んで「興味を失いつつある」と言っていた。
代名詞だか人称の使い方だったかに、違和感を感じて、ということだった。
60年代にソウルに生まれてアメリカで育った著者の描く“在日”に心理的な距離が生じているらしかった。

朝鮮民族、朝鮮文化、朝鮮の言葉。
日本人、日本語、日本文化・習慣。
英語、アメリカ的精神性。

20世紀を生きた在日コリアンのことを英語で書いて、日本語に翻訳して、それを読むのが日本人か、在日コリアンか。
読み手の文化的背景によってきっと少しずつ引っかかるところが違うのだと思う。引っかかるのは、ほんとうに小さなことなのだ。それこそ箸の上げ下げに似たようなこと。それで、このひとは在日のことを知らない、このひとは日本を知らないのかも、となってしまう。小説は、細部に命が宿るのであんがいその齟齬は大きい。

この小説を、オバマ大統領が、移民文学の傑作として絶賛したというのはそういうことだと思う。知らない世界の物語は無条件に面白い。私が、影島の章に心を寄せられるのもそういうことだと思う。
孫のソロモンとその恋人が、同じルーツを持ちながら、民族が同じ故に育った世界の差異が際立ってしまうのとも通じるかも。

それでも、「パチンコ」は読んでよかった。
うん、良かった。










 
 
1964年に書かれた小説。
半世紀も前のSFなのに、コロナ・パンデミックの2020年に読んでものすごいリアリティがある。MM-88というウイルスの不安が蔓延してゆく描写など、この3月のドキュメントなのかと思ってしまう。
インターネットもスマートホンもなかったけど、人類が滅びてゆく時にそんなもの関係ないんだな。コロナで亡くなるときには誰に看取られることもできない、それと同じ情景がアマチュア無線越しに聞こえてくる。

大活躍する主人公と言えるようなキャラクターはいない。しいて言えば映画で草刈正雄が演じた吉住だけど、全編通しては粛々と滅んでゆく命が主人公なのかな。ひとはほんとに、とことん愚かだと思うけれど、作家がそっと描くひとの良心、死を自覚しながら滅亡を覚悟しながらも、知恵を残そう希望を託そうとする小さな行いが胸をちりっと鳴らす。

もし、MM-88とCovid19が同じものだとしたら、この小説の2020年版のクライマックスは5Gによるのかもしれないな。




小松左京の小説は時間空間を扱ったハードSF的なものと、生物論、文明論的な視点のあるものと、どれも好きだった。10代の頃から読んでたのに「復活の日」と「日本沈没」は話題になりすぎて手に取りそびれたんだと思う。
ノンフィクションに「歴史と文明の旅」というのがあって、面白く読んだんだけど「文明は必ず滅びるが文化は残る」という意味の言葉があったのだけが記憶に残っている。もう一度読んでみたくなった。

小松左京というひとも、知の巨人だったんだよなぁ。







「クモの奇妙な世界」
 
 
「クモは虫じゃないっ!」と言われて、「ん?????」となったのは新宿三丁目の路上、就職2年目だった。直属上司だったオクダさん、元気かなぁ。
なんでもかんでもひっくるめて一般名詞として「虫」って言っちゃうのを許してくれないひとだったなぁ。

ボディがみっつに分かれていようがふたつだろうが、足が6本だろうが8本だろうが、そんなの数えたこともなかったから「え?虫じゃないって、じゃあナニ?」と思って尋ねたら「クモはクモ」とにべもない。

大学で生物学やって修論のテーマがクモって言ってたっけな、イキモノの話とマンドリンの話させたらニコニコと止まらなくなるかなりオタクな面白い人だった。


この本も面白かった。
クモが張る網状の巣の糸って、4種類あるんだって。身体から4種類の性質の違う糸を出すってすごいね。へぇ~へぇ~と思いながら読んだけど、クモの定義もすぐ忘れちゃう私なので、読む端から忘れた。
授業は面白く集中して聴いたけど、テストでは答えられないってやつ(笑)
でも興味深い動物だってのは確かです。






「忘れられた巨人」
 
 
忘却に守られることがある。

忘却に許されるものがいる。

忘却が育む人生がある。

 
 
 
 
隠れ家に籠った晩に、さわりだけと思って読み始めて気がついたら200ページを越えていた。
アーサー王が亡くなって何年経つのか。老騎士、腕の立つ戦士、村を追われた少年、鬼や雌竜、修道院、霧…。
ファンタジー的なものとはあまり相性が良くないのだけれど。
なにか危ういものを感じさせるけれど勇敢なベアトリスと、その老いた妻をお姫様と優しく呼ぶアクセル、老夫婦の旅。
「心配ないよ、お姫様」そう言うアクセルの声にエスコートされるように読み進んでしまう。
 
 
 
若い人が心躍らせるような冒険譚ではない。
年月が過ぎ去った後に残された、生の気配を慈しむように歩を進める旅。
カズオ・イシグロの小説はみな「名残り」の物語なのだなぁ。





……だから、約束してくれるかい、お姫様。この瞬間、おまえの心にあるわたしを、そのまま心にとどめておいてくれるかい?霧が晴れたとき、そこに何がみえようと、だ。




この瞬間。刹那。そして忘却。
忘却のさきに永遠の物語があるのかも。









読んだものメモ<2>
読んだものメモ<2>
読んだものメモ<2>
夏以降に読んだもの。
全然、感想もかけてないんだけど、読んだことさえ忘れそうなので。


「戦争の記憶 コロンビア大学特別講義 学生との対話」

歴史なんて「過去完了」なんじゃないの?なのになぜ、「戦争の歴史」を巡って論争が続くんだろうか。歴史修正主義者を批判できるほど第二次世界大戦を知らない。日本人の第二次大戦の記憶が1945年8月15日の「終戦」から始まるのはなぜか。第二次大戦が始まったのはいつか私は答えられなかった。


「戦争の記憶」の語られ方/「歴史」と「記憶」の違いとは/変化する「共通の記憶」/それぞれの国で語られる「第二次世界大戦」/日系アメリカ人の物語が認知されるまで/「記憶の領域」には四つの種類が存在する/クロノポリティクス――現在が過去を変える/慰安婦問題が共通の記憶になるまで/誰が記憶に変化を起こしたか/記憶を動かす「政治的文脈」/戦争の記憶は、自国の都合のいい形につくられていく/アメリカが原爆を正当化する理由/自国の「悪い過去」にどう対処すべきか/過去と未来に対する個人の「責任」…<目次より>


聴講生として興味深く講義を聴いたけれど、課題を持ち帰ってレポート書くのはなかなか困難で日記UPできず。




「生きるための論語」

れいわ新選組の安冨あゆみさんが魅力的で、なにか読んでみようとこれを。
そもそも論語、よく知らない。「シ、ノタマワク……えっとぉ???」そんなレベル。だから新解釈と言われても、比較する基礎がないので何とも言えないけれど、高校教科書の漢文でレ点がどうので終わってしまうのはもったいなかったね。「論語」が人類の叡智で実はとてもビビッドな内容なのだと認識。そういえば、「あわいの力」の安田登も論語の本出してたっけ。いま、論語にスポットが当たっている?もちろん「道徳的教科書が復活」的な意味ではなく。




「こころの旅」「砂浜に座り込んだ船」「種まく人」

美しい言葉で、気持をデトックスしたくなった時の定番的な。

ほかに「須賀敦子の手紙 1975―1997年 友人への55通」も。
「昭和ひと桁に生を受けて、経済的にも文化的にも裕福な家に育ち、キリスト教系の学校で教育を受ける」という、逃れようのない恵を浴びたひとだけが放てる香気というものがあるなぁと思う。須賀敦子とか正田美智子とか。
莫大な文化的資産を受け継いでいるんだと思う。

若松英輔の、悲しみを抱きしめる姿が変わらない。そういう作家がいてくれてありがたいけれど、すこし飽きている。比べるのは無意味だけど資産がないというか、貯金が少ないというか、、、(ごめん)。それも仕方ないんだけど、一億総中流時代のひとなんだから。
須賀敦子のあとで読んでしまうと、いっぱいいっぱいな感じが我がことに近いリアルで、そっと離れたくなる。いや、それを求める時もあるんだけど。








読んだものメモ<1>
読んだものメモ<1>
読んだものメモ<1>





「あわいの力」

2019年12月1日 読書
「あわいの力」
 
 
一ヵ月くらいかけてゆっくり読む。
ページを開くたびに、脳の中にある好奇心レーダーのあちこちにマッピングされてゆく。

本の感想は書きようがないので備忘録的にメモ。



心が生れたのはいつか。甲骨文字や漢字。時間認識と心の関わり。
「甲骨文字字釋綜覽」松丸道雄 1995 


ある能の鼓方が革を買った時の話。

「この革はいまは鳴りません。でも、毎日打ち続けて50年経てば鳴り始め、一度鳴れば、六百年は使えます」と言われたそうなのです。その方は当時、三十五歳。つまり八十五歳になってようやくいい音が鳴り始めるということです。
八十五歳まで生きる保証はどこにもありませんし、毎日打てるともかぎらない、ひょっとしたら、その鼓がいい音を出すのは百年後、百五十年後かもしれない

それでも鼓方は鳴らぬ鼓を打ち続ける。そうやって能は600年続いてきた。
600年を生きることは誰にもできないけれど、だからこそそういう時間スケールを持っていたいと思う。


西洋のリズムというのは、今の時点で存在しない未来をあらかじめ決めてゆくもの。能の拍子は今を刻むもの。

この生身の体には、未来という観念はありません。あるのは「今」というこの一瞬のみ。この刻一刻に、身体から得られるさまざまな感覚のみです。
普段の一瞬一瞬の「今」を充実させて、気がついたら死んでいたというのが理想的な生き方ではないかと思います。
   ・・・
未来を決めるリズムではなく、今を刻む拍子で生きる。それが、「あわい」の力。




「憐れみ」と内蔵が動く感覚。楔型文字から見える、子宮と憐れみとの関わり。
言葉に残っている。沖縄「ちむぐりさ」や普通に言う「腹が立つ」。腸が第二の脳。「キモ」が感情を生む?動かす?感じる?
「身体性」ということ。ロルフィング。甲野善紀さんとのつながり。

まだまだ書ききれない。図書館で借りたけど、この本は手元にあった方が良いかも。ミシマ社の本は、無自覚に私が探しているものを差し出して広げて見せてくれる。



安田登
http://watowa.net/


東京愛

2019年11月25日 読書 コメント (4)
東京愛
 
 
これほどの憎しみを持って故郷を捨てて、焼けつくような想いで東京に焦がれて生きた女性を、すこし呆然とした気持で眺める。
彼女が拾い上げる東京の断片を、ああ、そうだね、そうだったね、と頷きながら読むのだけれど、彼女の描く東京はちっともキレイじゃないし魅力的でもない。彼女は東京に恋焦がれていたというより、憎んでいたみたいだ。愛してくれない東京を。
でも東京は誰も愛したりはしないよね。
 

雨宮まみとジェーン・スーは、私の中でなんとなく対になっていて、「東京を生きる」を読みながらこの文章を思い出していた。

<東京生まれ東京育ちが地方出身者から授かる恩恵と浴びる毒>
http://janesuisjapanese.blogspot.com/2013/08/vol13.html



私の実感は、やっぱりジェーン・スーに近いし、彼女の物言い自体が、すごく東京の人、環七の内側の人だ。ジェーン・スーによく似た従姉が谷中に住んでいて、私が思う東京人ってこんなだよなぁ、と思う。
雨宮まみにイメージをダブらせてしまいがちな友人もいる。愛(のような、と但し書きしたくなる)感情がとても濃いひと。そんな、思い詰めないで、、とひやひやしてしまうような。

ちなみに三多摩人の私は、J8:A2くらいの割合で共感する。
環七の外側で生まれ育つというのは、かなり気楽なポジションかもしれない。
どっちからも東京人認定されず、雨宮まみに憧れられる(憎まれる)こともなく、投げられた石はジェーン・スーが受けてくれる。でも、第三京浜で秀和レジデンスを探す遊びのニュアンスがすごくよくわかるくらいには東京圏人で。
秀和レジデンスの話も、ああやって描写してしまうと鼻持ちならないエピソードになっちゃうけど、だってそれは東京ローカルの遊びなんだしあるだろうって思う。第三京浜と秀和が地方にないってことが憎まれてるなら、もうどうしようもないけど。



雨宮まみの欲望の正体はなんだったんだろう。
東京の真ん中で、私を愛してー!って全力で叫んでる姿が浮かんじゃう。でも、それを、誰に何に向けてるのかわからない。本人もわからなかったのかも。
東京に生まれ育っても、おんなじこと叫んでたかもしれない。
雨宮まみには、東京への愛はないよねぇ。







「小鳥たち」

2019年9月11日 読書
「小鳥たち」
 
 
このアナイス・ニンの書いたポルノグラフィは、愛人だったヘンリー・ミラーが、ある芸術的パトロンのために書くように勧めたものだという。パトロンの私的な愉しみのための読み物として書くようにと。パトロンの注文は、ただ「詩を切り落とせ」、つまりそのものを書け、と。
アナイス・ニンの名は伏せておくということだったらしいけれど、いやいやいやいや、アナイス・ニンの名があるほうが価値はさらにあがるでしょう。金銭的価値も、エロティカの価値も。
名のある美貌の女性作家の寝室の秘め事を、壁の節穴から覗き見る権利を所有するようなものだから。

ここにおさめられた短編は、注文通りそのものを描いているけれども、清潔感があって、やはりどうしようもなく詩的だ。可愛らしくさえある。


ポルノグラフィを書くアナイスと、それを読むミラー、それを所有するパトロン。3人の関係と、状況のほうが、この作品の何倍もアブノーマルでエロティックだ。









「犬の力」
 
 


麻薬犯罪を憎み、法の正義に殉じようとする捜査官アートが、自分の中に犬の力の存在を認める。アートにとって、犬の力とは戦うべき敵、すなわち“悪”であるとともに、その敵と戦うための力でもあるのだ。悪に立ち向かう武器としての悪。つまりは怒り。             
          東江一紀 訳者あとがき






暴力というのは、ひとから気力を奪うものだなぁと思った。本のページに記された文字だけだとしても、果てしない暴力の恐怖は伝わってくる。
文庫上下巻、1.100ページ。読み始めて足かけ3日で読み終えたのだけど、消化しきれずここに書くのに2週間かかってしまった。


物語は、DEA(麻薬取締局)捜査官のアート・ケラーがメキシコの麻薬カルテルと戦う話なんだけど。物語の背景の分厚さ。気が遠くなるほど。

まずね、地理が浮かばない。
メキシコがUSAと国境を接しているのはわかるけど、Google Map を見て長い国境線に驚く。
それから、中米のエルサルバドル、ニカラグア、ホンジュラス。南米のコロンビア。カリブ海の縁にぐるりと並ぶ国々。そのカリブ海のまんなかにキューバ。
アートが関わっているのは麻薬戦争だけれど、南米のバナナ利権の抗争や、冷戦終結後にも続いていた共産ゲリラとの抗争、中南米は軍事政権が多くて各国の警察も麻薬局も敵なのか味方なのか、裏切りや密告入り乱れて読んでる私も疑心暗鬼で不安がふくらんでくる。

1975年からの四半世紀が舞台になるのだけれど、読んでてため息が出たのは、この時代アメリカは中南米でベトナム戦争の続きをやっていたんだな、ってこと。
各国の不安定な軍事政権に、アメリカが「顧問」としてさまざまな「作戦」に関わっている。麻薬シンジケート撲滅、バナナ利権の確保の裏で、武器供与含む反共作戦。

アート自身、CIAとしてベトナム戦争に関わった経歴がある。元CIAということで
DEAでは組織に馴染めないはぐれもの。ものすごく大きな暴力の現場で生きてきて、ナイーブさを固い鎧で守って生きているところや、父親に見捨てられた出自は、ウインズロウの主人公だなって思う。四半世紀をかけて追う敵となるアダンはもう一人の主人公で、彼の持つ静けさはアートと通じるものがあるし、実際、ふたりの最初の出会いでは友情さえ生まれていたのだよね。短いあいだだけれど。

世界が犬の力で襲いかかってくるような場所で、自分の中の犬の力に呑み込まれないように足掻いて生きるアート、ノーラ、カラン。それから凄まじい暴力に蹂躙されて生きのびることのできなかったたくさんの登場人物たち。
アートもノーラも、おやすみのキスをして、朝までぐっすりと眠る、そんな夜を迎えられるんだろうかって思う。


続編の「ザ・カルテル」しばらく手を出せそうにない。

今の時点で思うのは。
アートはなぜいつも、もう一発撃ち込んでおかないのかってことだ。
いや、それをしないのがアートなんだってことなんだけれどもね。




マイクル・コナリー
 
 
なんで読まなかったんだろうなぁ、と考えた。
出会いそびれたんだって感じかな。


ミステリばっかり読んでた時期があった。90年前後。
読みだしてすぐにローレンス・ブロックを手に取って、マット・スカダー原理主義者となってしまったので、警官主役のミステリをスルーしてたかも。「ナイトホークス」が92年(日本での出版)のようだから、そのころはもうマットと一緒に私はニューヨークに移って、その勢いで大西洋を渡りイギリスの暗い謎や冷戦時代のスパイの世界を追っていて、西海岸のボッシュの登場に気がつかなかった。

遅まきながら「ナイトホークス」「リンカーン弁護士」「夜より暗き闇」を読む。「ナイトホークス」からボッシュ・シリーズを追う展開になれば良かったんだけど、ボッシュのキャラにハマり切れなくて、ミッキー・ハラーとテリー・マッケイレブに浮気する(笑)

この三人の中ではミッキー・ハラーが一番好きかも。清濁あわせ呑んで覚悟のあるところが。法廷ものは好きだし、アメリカの刑事弁護士、検事、判事の役割と駆け引きが面白かった。
テリー・マッケイレブはキャラクターとしては「わが心臓の痛み」一作から広がって行かなかったかなぁ。彼のプロファイリングをミスリードに使うために登場させた感が否めない。ボッシュの謎解き的なところは面白かった。けど、犯行が作り込まれ感満載なのに、そこ怪しいと思わないのは現役引退しちゃってるからか、とちょっと残念な感じで。
「ナイトホークス」は、たぶん、そのあとのミステリやハリウッド映画で描かれ続けている、傲慢なFBI、アホな内部捜査官の造形のプロトタイプになってるかもね。内部捜査官のアホすぎる自爆も、敵は身内にありという構造も、92年当時に読んでいればきっとすごく新鮮だったんだろうと思う。やっぱり出会いそびれたんだね。

だけど、マイクル・コナリーのプロット、ストーリーの作り込みの厚みはすごい。それぞれのキャラクターを肉付けするために語られるエピソード――主にかかわった事件のことだけれど――それぞれ独立した話にできそうなネタを惜しげもなく使ってるし、捜査する側、弁護する側、訴追する側、「事件」というものをそれぞれの立場から描き分けてて読みごたえある。

ボッシュは「ブラック・アイス」「ブラック・ハート」は続けて読むリストに。
ミッキー・ハラーも。


パンケーキ食べに Du-Par’s へ行くくだりは、にんまり♪









ひとと樹と虫と

2019年6月19日 読書
ひとと樹と虫と
  
 
街に出ると、結構、木を見ながら歩いている。
近所なら顔見知りの木がいっぱいあって、花の付き具合とか目に留まるし、生垣なんかは、わぁ、今年はバッサリ切られちゃったねーと思ったり。
街路樹なんかは、この本の表紙のイチョウのような姿をよく見かけて、剪定とは言えないよね、これじゃ枝打ちじゃない?だったらなんでここにこの木を植えたんだろーって思ったりする。




たしかに街中では、人と木の都合が合わない状況がたくさんあります。だから人と木のキモチがどんどん離れていって、木は邪魔者扱いされてしまうのです。でも、そこでもし木のキモチがわかれば、そもそも街の木が、とても理不尽な目にあっていることがわかってくるでしょう。
人のさまざまな都合で、過酷な環境に植えられていたり。無茶な切り方をされていたり、余計なものをつけられたり…。そういう木に出会うと、ついつい悲しくなったり、腹が立ったりしますが、それでも前向きに、たくましく生きている姿を見ていると、否定的な感情はどこかに吹き飛んで、素直に感動してしまいます。                「街の木のキモチ」岩谷美苗



わかるなー。
森林インストラクターで樹木医の著者の街の樹木観察コラムに、うんうん、なるほどと共感する。ひとの傍らで生きる木って、ほんと苦労してるなーと思う。
新築住宅にはかならずシンボルツリーを植えるのに、切るときの容赦のなさというか、考えなしなの意味がわかんない。



「虫といっしょに庭づくり」これも、私の庭とのつきあい方にぴったりで嬉しくなる。そもそもがガーデナーとかそういうタイプではなく、まめに庭をいじるなんてメンドくさくって無理って思ってて。葉を食べる虫にも、あーあとは思うけど、いちいちやっつけてられないメンドくさがり。アシナガバチを誘致したい、テントウムシに来てほしいって思ってたら、いつのまにか庭にいて。草食昆虫と肉食昆虫のバランスが取れてれば、葉の食害もそんなに気にならなくなる。大喰らいの草食昆虫がでた時だけちょっと介入すればいい程度だってわかったらとってもラクだし、楽しい。





ご近所のおばあちゃんたちがウチの前でよく立ち話をしている。
犬の散歩や買い物で行きあうみたいで。ウチの前の道は私道なので、モミジが枝を張り出してるけど邪魔にならないからそのままにしてる。コブシも茂って木陰になってるから、ちょっと足を止めるのにちょうどいいんだと思う。レモンの花の匂いや実のことがよく話題になってもいる。


植物が元気なところにはたくさんのイキモノが集まるって思う。







1 2 3 4 5 6 7

 

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索