「国境なき医師団を見に行く」

「難民の方々」という言い方がでてくる。

これは取材に同行するMSFジャパンの広報の女性が、そう言うからなのだけれど。その、方々と言い添える態度に、すべてが表れているような気がした。




……俺は、MSFのスタッフが基本的にみな、難民の方々への分厚いような「敬意」を持っていることを理解した。
    …中略…
彼らは死ななかったのだ。
苦難は彼らを死に誘った。しかし彼らは生き延びた。そしてなにより自死を選ばなかった。苦しくても苦しくても生きて今日へたどり着いた。
そのことそのものへの「敬意」が自然に生じているのではないか。
俺はそう感じたのである。
善行を見て偽善とバカにする者は、生き延びた者の胸張り裂けそうな悲しみや苦しみを見たことがないのだ。



MSFの公用語ともいえるフランス語や英語でどう言い表されているかはわからないけれど、MSFのスタッフの中に、災害や戦禍や貧困にあい難民とならざる得なかったひとたち、そしてそれを生き抜いたひとたちへの「敬意」があるのだと思う。




もし日本が国際紛争に巻き込まれ、東京が戦火に包まれれば、とすぐに想像は頭に浮かんだ。
明日、俺が彼らのようになっても不思議ではないのだ。
だからこそ、MSFのスタッフは彼らを大切にするのだとわかった気がした。スタッフの持つ深い「敬意」は「たまたま彼らだった私」の苦難へ頭を垂れる態度だったのである。



いま日本に、というか私たちに、、いえ、私に足りないものは「たまたま彼らだった私」という想像力。
「難民」という言い方は乱暴だ。ひとりひとりを見ていない。言葉は意識だから。難民の方々と自然に言う想像力を持っていたい。



「シュバイツアーを尊敬しているから」
「MSFに入りたくて看護師になった」
「誰かの役に立つ番だと思った」
とりあえず平和でとりあえず衣食住足りた日本で、こういう言葉を普通に聞くことがあるだろうか。照れたり小馬鹿にしたりすることなく。
尊厳、敬意、夢、理想。そういう言葉が普通に語られ、その概念を具体化しようとするひとたちがいる。苛烈な状況の最前線に。国境なき医師団のオペレーションの現場に。







「約束」
ロバート・クレイスはデビュー作の「モンキーズ・レインコート」の翻訳が出たのが89年? その頃は翻訳ミステリをかなり読み漁っていた気がするんだけど、ほかをあんまり覚えてない。たぶん、そのころにマット・スカダーに出会って、彼を追ってニューヨークに移ってしまったからかも。

「モンキーズ・レインコート」、どんな話だったかすっかり忘れていて、思い出すのは、そのころ日本趣味が流行っていたよな、ってことくらい。
慎ましやかなヒロインに、寡黙なマッチョの探偵が銃の撃ち方を教えて「静かな身体をしている」と言うシーンが印象に残ってるんだけど、「モンキーズ・レインコート」だったかどうか。


で、「約束」
ジャーマン・シェパードのマギーに再会できるんなら読まなくちゃとページを開いたら、エルビス・コールにジョー・パイクとも再会。いやあ、お久しぶりです、、って、これはエルビス・コールシリーズの一冊なの?
アルカイダとか、プラスティック爆弾の密造・取引とか、国家保安省とか、なんかすごいデカい話なのかな、と思って読むとそうでもないんだけど、面白く読めてしまったのはキャラクターが濃い~せいかな(笑)
コール&パイクに+ジョン・ストーンってなにこの最強感。彼ら3人で精鋭特殊部隊っぽくて、これで事件解決しないわけないだろって思う。
ここに、自分のなすべきこと、守るべき者、大事なことのすべてを理解していてブレることのないマギーが加わったら、さあさあ、三人と一匹、存分に活躍して頂戴って感じ(笑)

サスペンスを盛り上げるために無駄に死体が増えないのも、案外品が良いね。実は、そろそろ、ここらへんでメリルかエリート女性捜査官あたりが死ぬんだろうなーなんて思いながら読んでた、、、ら、外れた(笑)
パイクとストーンがマギーを構うとことか、なんだか微笑ましくて、気楽に楽しめました。

コールが焼くラムのローストが美味しそうで、そうだ、行きたい羊料理の店があったこと思い出した!





「想像ラジオ」

2018年3月26日 読書
「想像ラジオ」
すこし前に、「三月の水」の歌詞の和訳を探していてひっかかってきた小説。
いとうせいこう。名前は知ってたけれど、放送作家?マルチタレント?
よく知らないひとだったけれど、ご縁ができた。そう思って思い出してみると、『平和自由宣言 遠隔セッション』指定書とか面白いステイトメントをあの夏に出してるのを読んでたっけ、と思う。
https://ameblo.jp/seikoito/entry-12071554311.html

いろいろ読んでみようかな、と思う。

でもまずは。
この曲達を、順番に聴こう。


「デイドリーム・ビリーバー」 ザ・モンキーズ
「哀愁のマンデイ」 ブームタウン・ラッツ 
「私を野球につれていって」 フランク・シナトラ 
「ソー・マッチ・ラブ」 ブラッド・スウェット&ティアーズ 
「三月の水」 アントニオ・カルロス・ジョビン 
「アバンダンド・ガーデン」 マイケル・フランクス 
「あの日の海」コリーヌ・ベイリー・レイ 
「レクイエム」モーツァルト 
「愛のメモリー」松崎しげる  
「ペトルーシュカ 3楽章」ストラヴィンスキー マウリツィオ・ポリーニ
「リデンプション・ソング」 ボブ・マーリー







課題図書が読めたためしがない
課題図書が読めたためしがない
アルバム制作にはいっている旅人がライヴで歌うのはひさしぶりだった。
昨年の、夏の終わりのメルツバウ以来だから、半年ぶりくらい?

ライヴひさしぶりで、MCの仕方忘れちゃって………とか言いつつ、この日の旅人は饒舌だったな。
おしゃべりなひと、というわけではないと思うのだけど、ワンマンライヴの時などMCが止まらなくなることある。彼は胸の中に想いがいっぱいいっぱいあって、だから歌があふれるように生れてくるんだろうけど、まだ歌に昇華されてないことにも触れずにはいられなくて葛藤してるような時もある。
世界が壊れてゆくような出来事に触れると、特に。この晩は、民生用ドローンでの空爆が行われたことを話し出して、話し出してから、今夜は梅津和時さんの主催ライヴだって思いだしたんだろう、短く切り上げてたけど。

ブルース・チャトウィンの「ソングライン」の話もしていた。
ドローンの話とは対極にある、美しい均衡を保ってある神話的世界の話だよね。


やっぱり読まなくっちゃ。
これ、図書館に行くたび棚から抜いてページを開くのに、なぜか本を閉じてそっと棚に戻しての繰り返し。読みたくないのか?
いや、ほんっとに読みたいと思ってるんだけど………読めない。
翻訳ノンフィクションは私と相性が悪いのかなぁ。
なっかなか読めない本がもう一冊。
ケネス・ブラウアーの「宇宙船とカヌー」、これ、2回買ってるのに読めないまま、30年? なっかなか、、で30年って???

なんか、一生ものの課題図書状態。。。





「タンゴステップ」

はじめてのヘニング・マンケル。
つぎは「顔のない男」を読みたいと思う。

アルナルデュル・インドリダソンの作品を読んだ時も、アイスランドのあれこれを検索してしまったのだけれど、今回はスウェーデンについてネットで読み散らした。北欧の小説の空気感ってなにか独特な気がする。
アメリカの推理小説みたいな饐えた匂いがないというか。埃っぽくないというか。寒くてモノが腐らないし人口密度低いから、、とかって話ではなく。いや、あんがい、そのままそれが空気感にでてるのかもしれない。描写も品が良いし。

アメリカの警察小説が、そりゃあもうシステマティックに捜査を進めていくのに比べたら、エステルスンド警察は牧歌的というかなんというか。
危機が迫ってるのに刑事に電話繋がらないとか、警察署の電話が留守電だったりとか(警察無線とかないのか)、刑事が事件関係者の名前をレストランの領収書の裏にメモしてそれを失くす(犯人に拾われる!)とか。休職中の刑事を捜査に加えてしまうとか(アメリカだったらもうこれだけで公判維持できないよね)とかとか。杜撰といえば杜撰(笑)
ミスリードとかもなくて、「正しく」怪しい人しか登場しなくて、そしてそれをほぼ正しく主人公が無駄なく追ってゆき。ストーリーに緊迫感が生れるのは、捜査する側がうっかりだったりドジだったりするからで。

あらら、こう書くとなんだか身も蓋もないけど、こういったことはこの作品の瑕疵にはならない。むしろとてもリアリティのある人間がそこにいると感じられる。
松本清張なんかに近いと思う。
登場人物に個人としての人間味があって、さらに世代をまたいだ社会背景があって。大きなくくりで見る時の人の不気味さおぞましさと、ひとりひとりの人生のかけがえのなさが伝わってくるような。

これは推理小説ではなくて、社会小説、人間小説なんだね。
だから推理小説の要素、Who、Why、Howは早い段階で明かされているし。
それよりもっと大事なテーマがある。

2000年に発表された作品だけど、人の精神から完全に消し去ることのできないファシズムという疫病の不気味さは、2018年のいまの状況を読んでいるようだった。
第二次大戦中のスウェーデンがどういう状況、どういう立場だったのかまったく知らなかったのだけれど、ドイツと結びつきの深かったこの国では1930年代にナチズムが深く広まっていたらしい。


表に立ってパレードをする人々の後ろに、ヒトラーを崇拝する顔のない灰色の群衆がいた



灰色の群衆―――この言葉に背筋が寒くなる思いがする。






「迫りくる『息子介護』の時代」

思えば友人にこの本を紹介されたのは半年くらい前だったし、会うたびに話題に出ていた。とっくに読んでいておかしくはないのだけど、この本はなぜかすぐには手が出なかった。検索すらせず、タイトルも、息子の介護がどーのこーの、くらいの記憶で終わってた。

たぶん「息子介護」という言葉に「ふーーーーーん」という、醒めた気分が湧いたんだと思う。
読んでみて、それはある意味当たっていて。著者が書いている。
介護はいまだ「女性のしごと」にされ続けていると言ってよい、と。
そもそも娘も息子も嫁も婿も、その立場、ジェンダーに関係なく介護の担い手になっているのであれば「息子介護」と銘打つこともないわけだから。
女である私は、たぶんそのあたりを「ふーーーーーん」と嗅いだんだろう。

でも毎回話題に出るし、そろそろ読んでおくか、、、くらいの感じで読んでみたら、社会学的なアプローチで、息子介護というレアケースから俯瞰で見えてくるものがあって面白かった。パラサイトな息子が介護の泥沼にはまって破綻してゆく悲惨なドキュメンタリー、、をちらと想像したけどそうではなかった(笑)

そうではなかったけれど、読後感は複雑。
この著者のスタンスには共感できるし介護者の心理について、ああ、なるほどと思えることもあるので、読後感の複雑さはもっぱら私自身の「介護」への距離感、もっとはっきりいえば拒否感。

他人事じゃないからこういうものも読んでおこう、、と思ってられるうちはきっとまだまだまだまだ他人事。社会学的興味だけで読んでられたら面白いで終わるんだけど、「迫りくる息子介護」が足元にある。いやだ、「ある」って言いきりたくない。自分事として考えたくない。他人事にしておきたい。

………というわけで、妙な葛藤ばかりが残る読書だった、と締めてしまおう。
なんだかこれ以上書いてると、パンドラの函??を開けてしまいそうなので(笑)



















「夜と霧」

2018年1月4日 読書
「夜と霧」

中学3年の冬休みに読んだ。
2学期の最後の授業で社会科の教師がこの本のことを話して読んでみようと思った。高校受験直前の、逃避的な気分もあったと思う。10代の頃は、生真面目にも本は読み切らないといけないとか思ってて、だからちゃんと読んだはずなんだけど…。

「フランクル『夜と霧』への旅」という本の書評を読んでいて、もしかして私は「夜と霧」をアウシュビッツの告発としてしか記憶してないかも、、と思い再読。図書館で、新訳版と二冊並んでいたのだけど、10代で読んだのと同じ霜山版を借りた。

1956年に出た霜山版は、フランクルの書いた「ドイツ収容所の体験記録」の前に、同じくらいの文字数を費やした「解説」があって、そこに収容所で「実施されたナチスの命令」の数々が記されている。後ろには写真と図版。
それらの読後感とその後見聞きしたアウシュビッツの実態の印象が膨らんでしまっていたんだと思う。
フランクルの書いた部分は記憶の奥に隠されてしまっていたみたいだ。



何度も繰り返し傍らにいる看視兵がどなり、銃の台床でわれわれを駆り立てた。ひどく傷ついた足を持っている者はその腕をそれほどひどくない隣の人の腕にかけていた。われわれの間にはほとんど一語も交わされなかった。未明の氷のような風は、そのほうが賢明であることを示していた。上衣の襟を立てたその陰に口を覆いながら、私と並んで進んでいた一人の仲間が突然呟いた。
「なあ君、もしわれわれの女房が今われわれを見たとしたら!たぶん彼女の収容所はもっといいだろう。彼女がいまわれわれの状態を少しも知らないといいんだが」
すると私の前に私の妻の面影が立ったのであった。そしてそれからわれわれが何キロメートルも雪の中をわたったり、凍った場所を滑ったり、何度も互いに支え合ったり、転んだり、ひっくり返ったりしながら、よろめき進んでいる間、もはや何の言葉も語られなかった。しかしわれわれはその時各々が、その妻のことを考えているのを知っていた。ときどき私は空を見上げた。そこでは星の光が薄れて暗い雲の後ろから朝焼けが始まっていた。そして私の精神は、それが以前の正常な生活では決して知らなかった驚くべき生き生きとした想像の中で作り上げた面影によって満たされていたのである。私は妻と語った。私は彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑するのを見る。私は彼女の励まし勇気づける眼差しを見る――たとえそこにいなくても――彼女の眼差しは、いまや昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。その時私の身をふるわし私を貫いた考えは、多くの思想家が叡智の極みとしてその生涯から生み出し、多くの詩人がそれについて歌ったあの真理を、生れてはじめてつくづくと味わったということであった。すなわち愛は結局人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという心理である。私は今や、人間の詩と思想とそして――信仰とが表現すべき究極の極みであるものの意味を把握したのであった。愛による、そして愛の中の被造物の救い――これである。たとえもはやこの地上に何も残っていなくても、人間は――瞬間でもあれ――愛する人間の像に心の底深く身を捧げることによって浄福になり得るのだということが私に判ったのである。収容所という、考え得る限りの最も悲惨な外的状態、また自らを形成するための何の活動もできず、ただできることと言えばこの上ないその苦悩に耐えることだけであるような状態――このような状態においても人間は愛する眼差しの中に彼が自分の中に持っている愛する人間の精神的な像を想像して、自らを充たすことができるのである。




あるいは一度などは、われわれが労働で死んだように疲れ、スープ匙を手に持ったままバラックの土間にすでに横たわっていた時、ひとりの仲間が飛び込んできて、極度の疲労や寒さにも拘らず日没の光景を見逃させまいと、急いで外の点呼場まで来るようにと求めるのであった。
そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃え上がる雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅の色までこの世ならぬ色彩とを持った様々な変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の掘立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水たまりはまだ燃える空が映っていた。感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞こえた。





これに、さらに感想めいた言葉を付け加えるのも憚られるけれど。

それがほんの一瞬でも、温かいものを胸に抱く想像力や美しいものに胸震わせる感受性を持ち続けることで、ひとは生を繋いでゆけるのかもしれない。時にはユーモアも。口には出さなくても、スープの列を待つときに思いつくジョークが生むなけなしの豊かさが、ひとを生き永らえさせる、こともある。
収容所では絶望しきった者の多くが先に逝った。
ここを出て、自分の人生に戻った時に、愛する者や仲間や仕事が待っていると希望を繋げるものが収容所をよく生きた。

けれど、生き抜いたものを待っていたのは愛する者ではなく、その愛する者たちが既に亡くなっているという事実で、フランクルも妻とふたりの子供、両親がほかの収容所で殺されていたことを知る。
収容所から解放された彼が、その後の人生を生きるためには、この手記を書くしかなかったのかもしれない。精神科医という仕事だけは、失われることなく彼を待っていたのだから。





われわれはこの地上には二つの人間の種族だけが存するのを学ぶのである。すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との「種族」である。そして二つの「種族」は一般的に拡がって、あらゆるグループの中に入り込み潜んでいるのである。専ら前者だけ、あるいは専ら後者だけからなるグループというのは存しないのである。この意味でいかなるグループも「純潔」ではない…… 
    



多年収容所で過ごし、ひとつの収容所から他の収容所へと、結局は一ダースもの収容所を廻ってきた囚人の中には、この生存のための苦しい闘いにおいて、良心なく、暴力、窃盗、その他不正な手段を平気で用い、それどころか同僚を売ることさえひるまなかった人々がいたのである。

すなわち最もよき人々は帰ってこなかった。     





品位ある善意のひととして生き延びる自信は私にはない。
「処理」の順番が早くて、それを失って別の「種族」に成り下がる前に人生終えるくらいが関の山かもしれない。


フランクルが戦後に行ったスピーチの一節。

ナチズムは人種的狂気をひろめました。けれども、本当に存在するのは二つの「人種」だけです——品格ある人たちと、そうでない人たちと。この「人種」の分け目は国際社会にも、また国内の政党の間にもあります。強制収容所のなかでも、ときにはちゃんとした親衛隊員に出会うことがありましたし、またならず者の囚人もいたのです。ちゃんとした人たちが当時少数だったこと、またいつもそうだったこと、これからも少数派にとどまることを、私たちは受けいれるしかありません。
事態が危険になるのは、政治体制が国民のなかからならず者を選んで上に行かせてしまうときです。





「事態が危険になるのは、政治体制が国民のなかからならず者を選んで上に行かせてしまうときです」







ひとりの夜の読書にテッド・チャン。

SFを読むのはひさしぶり。
「あなたの人生の物語」以来だと思う。それすら、たぶん20年ぶりとか、もっとかも。つまりここ30年、SFはテッド・チャンしか読んでない。

映画の話や言葉の起源の話からテッド・チャンの名前が続けて出て再会。
こういうのもまた「歳月の門」をくぐって私を訪れた誰かの仕業、なのかも。なんていうと大袈裟なようだけれど、何度もめぐり逢うものってそういうものかも。それを縁といったり相性といったり運命といったりするけど。
たかだか50ページの短編をそんな風に言いたくなるのは、この物語が滋味にあふれているから。

ハードSFなのだけど、現代科学のことわりに添いながらこんなに抒情性のある静謐な世界を描く彼の作風に惹かれる。天文学も物理も数学も、すべては時間や空間の謎のさきにある「存在」の不思議に行きつくものだから、文学的な想像力と結びついたら語られるのはやっぱり「あなたの物語」。

ノーベル文学賞を受賞したSF作家はまだいないけれど、なぜかしら?
21世紀になって、これからさき最新の科学的教養抜きには表現できない「文学」ってあると思う。ハードSFの大御所はもう多くが別の時空に旅立っちゃったけど、まだ若いテッド・チャンならいつか。




なにをもってしても過去を消すことはかないません。そこには悔俊があり、償いがあり、赦しがあります。ただそれだけです。けれども、それだけでじゅうぶんなのです。
                       「商人と錬金術師の門」




時間SFアンソロジー「ここがウィネトカなら、きみはジュディ」収録。
“アラビアンナイトの皮をかぶったハードSF”



 ・・・・・

あ。「スローターハウス5」もカテゴリはSFだった。
私は時間SFが好き。





「写真の偶然の詩集のビリーの影」
「写真の偶然の詩集のビリーの影」
「写真の偶然の詩集のビリーの影」
坂本龍一「async」に展示されていた北園克衛の本を借りた。


 レモンの絹の木の影の海のガラス
 の寝室
 の眼
 のプリズムや
 孤独
 のピラミッド
 
 紫
 の疲れ
 
 そして
 また
 砂
 
 


と、これもまた坂本龍一らしい、気がする。
文字の並びと余白をデザインして詩作をしたひと、らしい。
いまだとタイポグラフィも見慣れている気がするけど、50~60年代にはモダンだったのだろうね。なんとなくどこかで見たようなアート、、という印象。
ああ、ハヤカワ・ミステリ文庫のエラリー・クイーンの表紙デザインを手掛けてたんだ。見た見た、見覚えあるこのシリーズ。と懐かしい。



坂本龍一のコレクションの写真に写っているのは「スローターハウス5」のDVD。この写真はメモがわりにパシャっと撮って、内容も確認してなかった。だからこのDVDに気付いたのはひと月半くらいしてから。
「async」に行ったその日に、旅人の歌の流れから「スローターハウス5」の話題がでて、興味を惹かれて本を読んでいた。
だから、この写り込んでるビリー・ピルグリムの顔見て、へえ、、と思った。
同じ日に、まったく関係のない異なった流れから「スローターハウス5」が私のところにやって来ていた。

偶然について。
やっぱり「偶然というのはありふれたもの」って思う。

もし、「スローターハウス5」を読んだ私が、なにか雷に打たれたような啓示でも得て、人生変えるようなことになっていたとしたら、この日の偶然を「奇跡」と呼んでもいいかもだけれど、そんなことはまったく、微塵もなく(笑)
この写真に気付いたから、へえ、と思うけれど、それ以上でもそれ以下でもなくただそれだけのこと。
もしかしたら、この同じ日に、外苑西通りですれ違ったお兄さんがビリー・ピルグリムのプリントTシャツを着てたかもしれないし、カフェの隣でお姉さんが読んでいたのが「スローターハウス5」だったかもしれない。気が付かなかっただけで。

つまり、気付いたことのみを「偶然」と呼ぶのね。偶然と書いて「へえ」と読ませてもいいくらいかも。
そもそも、偶然の意味は「他のものとの因果関係がはっきりせず、予期できないような仕方で物事が起こること」だって。
「レモンの絹の木の影の海のガラス」くらいに脈絡のないこと。

ほんとうに、ほんとうに、ありふれた事。
なのに、それを面白がる気持ちってどこからきてどこへいくのかな?
そっちのほうが興味ある。










 

「ARCTIC WILD」

2017年9月5日 読書
「ARCTIC WILD」
「ARCTIC WILD」
ひと疲れすると手が出るオオカミ本。
あいかわらずです。

邦題は「トリガー わが野生の家族」1958年初版。ボロイにもほどがある。200ページめくる間に、ホコリだけじゃなくいろんなあれこれが舞い上がってきた気がする。寝転がって読むと顔にあれこれ浴びそうで、行儀良く読んだ。こういう本も捨てずに置いてあるのが図書館の良いところね。ケホ。

北極圏を300キロほど入った荒野で7頭のオオカミと暮らした記録。
北極圏の自然の描写の美しさ、野生への驚きと敬意、狼への愛情に満ちた文章にはほっとする。
けれど、撮影のために5頭の仔オオカミを巣穴から盗むとか、ありか?60年前だしな、この取材の依頼はウォルト・ディズニーだしな、、と。

夫婦ふたりだけで、北極圏に小屋を建てるところから始めて1年半、零下40度になる冬も暮らす。分厚い冬毛のコートも自前では生えてこないっていうのに。
あこがれるだけで永遠に体験しえない Full Life 。

新装版、あっても良さそうなのに、出てないのね。






「歌うカタツムリ」

タイトルを見て、ロマンティックな期待を抱いて読み始めたけれど。
ダーウィンから始まる進化論の紆余曲折、論争の歴史をなぞったものだった。
本の帯を読めば、そう書いてあるね(笑)
ま、これはこれで面白く読んだけど。

1859年に「種の起源」が発表されてから、160年、生物の進化について喧々諤々論争が続いている。自然選択説(自然淘汰)vs 遺伝的浮動(突然変異)を中心にいろいろ(詳細は面倒なので省略 笑)いろいろな説が発表されるんだけど、門外漢の素人が読んでると、「全部ありなんじゃないのぉ~?」なんて思ってしまう。
絶対的な法則を見つけ出したい(あってほしい)と思う気持ちは解らなくはないけど。みつかればそりゃ~すっきりするもんね。

160年ものあいだ、科学が進んで新しい手法が使われるたびに導かれる結論が振り子のように大きく振れて、ダーウイン、反ダーウインがせめぎあう。その流れを読んでいると、ひとって、自分が見たものしか信じないんだな、と思う。しがみついてしまう、というか。まあ、観察にしろ実験にしろ何年も、時には半生賭けてしまうくらいの時間費やすから、そうそう自己反証することもできないだろうけど。にしても、「論争」は妙に感情的で政治的であまりにも人間的。

カタツムリは、進化論論争の歴史の中で常に観察される対象だったんだけど、読み終わって

かたつむり枝に這い 
神、そらに知ろしめす 
なべて世は事もなし

この詩が思い浮かんでしまった。

進化の法則なんてなんだっていいや、って。
カタツムリは愛らしいなぁ、と。

なんだか身もふたもなし(笑)















借金取りに追われたことがある。
小学校3年かな。

実母が友人の借金の連帯保証人になって、その友人が返せなくなり……というお定まりの話。
家の前で、「〇〇さ~ん。集金にあがりました~」みたいなことを近所に聞こえる大声で言う。いつまでもいつまでも「〇〇さ~ん」と。
電話がかかってくる。昔の黒電話には留守電なんてないから、いつまでもいつまでもいつまでも、鳴ってる。受話器を外しておく。しばらくすると玄関先で声がする。「〇〇さ~ん、いるんでしょ」

母は私に電話に出るように言った。出て、お母さんは出かけてますと言えと。
「出かけてます」「いません」「いつ帰るかわかりません」

だから、電話がいまでも嫌い。出るのも掛けるのも。コールを聞くのも嫌い。
家の電話は常に留守電。携帯は常時マナーモード。

小学生の子供に嘘をつくことを教える母親があるかい?!
…と呆れて思えるようになったのはもう少し大人になってから。

あ、話が逸れた。
借金取りの話だった。

借金取りのしつこさは知ってて読んだけど、大阪の借金取りは比じゃないね。玄関蹴破って土足で上がり込んで来られて、家探しされてガラス割られて家具壊されて怒鳴られて…こうちゃん、どんなに怖かったろう。
だけど、その借金取りのおっさんと兄ちゃん3人を泣かすこうちゃんの「必死のパッチ」に、私も泣いた。

中学生のこうちゃんの「狸の賽」、聞いてみたかったな。

桂雀々さんの高座、聞きに行ってみよう。





「プラテーロとわたし」
「プラテーロとわたし」
「プラテーロとわたし」

 サンティアゴの朝は、綿でつつまれたように、白と灰色に曇っている。みんなミサに行ってしまった。スズメたちとプラテーロと私だけが、庭に残った。
 スズメたち!ときどき小さなしずくを降らせる丸い雲の下で、ブドウづるの間を出たり入ったり、さえずったり、たがいにくちばしを取り合ったりするスズメたち!そこの一羽は枝にとまったかと思うと、その枝をふるわせて飛び立ってしまう。もう一羽は、井戸のふち石の小さな水たまりにうつる空のひとかけらを飲む。向こうの一羽は、花におおわれた物置の屋根に飛び上がる。屋根の花はほとんどかさかさだったが、曇り空で元気づいている。
 きまった祭日とてない幸福な小鳥たちよ!自然で真実な教会の鐘は、いつも同じようにのびやかに鳴るが、何かしらよろこばせてくれるものでもないかぎり、スズメたちは知らん顔だ。満ち足りたスズメたちには、逃れられない義務もなく、あくせくはたらくあわれな人間たちをよろこばせたり、おびやかしたりする天国も地獄もない。自分たちの道徳のほかに道徳はない。青空のほかに神もない。スズメたちは私のきょうだい、私のいとしいきょうだいなのだ。
 スズメたちは、金も持たずカバンもなしに旅をする。気が向けば移り去る。せせらぎを感じ取り、茂みを予感する。幸福を得るためには、自分の翼をひらくだけでよい。月曜日もなければ土曜日もない。いつでも、どんなところでも水を浴びる。恋をするが名前はない。ひろくみんなを愛するのだ。
 そうしてあわれな人間たちが、扉を閉めて、日曜日ごとにミサに行くとき、スズメたちは陽気にさわやかにさわぎたてながら、閉めきった家の庭へ大急ぎでやって来て、儀式なしの愛情をたのしく見せてくれる。そこにはスズメたちがよく知っている名もなき詩人と、やさしく小さなロバが(おまえは私といっしょだね?)スズメたちをきょうだいとしてながめている。
                    
「スズメ」 J.R.ヒメネス




休日には、ベランダに置いた縁台で空に向かうジャスミンの蔓や陽を弾いてきらきらひかる檸檬の葉をながめて過ごす。風に乗って踊るアゲハが迷い込んだり、アシナガバチが偵察に来たり。思いがけずシジュウカラの巣立ちを見たり。
私も、あくせくはたらくあわれな人間のひとりだから、逃れられない義務にうんざりしたりもするのだけれど、小一時間、庭やベランダで時間を過ごせば、穏やかで満ち足りた気持になる。ほんとに。

これで隣にロバがいたら、もう何も言うことはないのだけれど。





「ポーの一族 春の夢」
麗しのエドガー、40年ぶりの再会。
オリジナルの「ポーの一族」買いなおして読みたくなった。

 
 
・・・・・・・・ 
 
エドガーの「この世のものに非ざる」妖気が薄れてた。
彼はもっと孤独でもっと怒っていた。もっと悲しんでいた。
40年の時を過ごして、“老成”したのか、人の世に生きることに慣れたのか。
人間味が増してしまった感じ。
すべてを悟ったように鎮まって、氷のように超然としていたエドガーはどこ?
作品のページ全体が、騒々しい。しんと冷えた空気感が失われている。
萩尾望都の女の子主役の作品はだいたい騒々しい。14~16歳くらいの女の子の発散する生々しいエネルギーが空気をかき回して弾けるような物語になってるという印象があるんだけど、このポーの、ブランカという女の子がまさにそれ。ばたばたと走り回ったり、汗をかくエドガーなんてあり得なかった。

とはいえ、萩尾望都、絵は綺麗だし話も面白いし、これはこれで。





捨てられた村に、ひとり残る老人と一匹の犬。

その設定から、フリオ・リャマサーレスの「黄色い雨」を思い出したけれど、スペインの山岳部の冷え冷えとした土地と対極にある世界だった。
千年に一度の日照りで干上がった大地。水も食べ物も底をついてなお老人と犬が守るのは一本のトウモロコシ。

「黄色い雨」の老人は、すでに霊魂となった者なのか、夢なのか淡あわとした存在だったけれど、「年月日」の老人は灼熱の大地に立ち、太陽に向かって鞭を振るい、儂がトウモロコシを実らせると声嗄らして叫ぶ。
ああ、大陸の大地を相手に生きてきた農夫には敵わない、、と畏敬の思いが湧く。

72歳の先じいと、犬のメナシ。そして一本のトウモロコシ。
赤く灼けた大地の、命。

・・・・・
太陽の光があまりに強く、重さとなってのしかかってくるという表現や、音や匂いを色で描写する表現、好きだ。
読みながら、ほんとに喉が渇いた。



閻連科(えん れんか)
獰猛で凶暴な作家という烙印押されているらしい。
大陸のひとらしい激しさを感じるけれど、動じず鎮まっているような気配もある。陽炎が立つほどの炎天下が不思議な静けさに包まれているみたいに。







「ビリー・ピルグリムは時間のなかに解き放たれた」

そうじゃない。
解き放たれたのではなく「閉じ込められた」のだ。

ビリーは、けいれん的時間旅行者で、次の行く先を選ぶことも、干渉することもできない。自分の人生を離れてまったく未知の時代、場所へ跳ぶこともない。ただただ、自分の人生のある場面をランダムにくりかえし体験するだけ。
戦争を、飛行機事故を、妻の死を、自分の死を、異星での暮らしを、繰り返す。自分の人生に永遠に閉じ込められている。

これは、地獄というのではないの?


・・・・・

人生にもう一度味わいたいと思うような瞬間はいくらもある。
あのときの空の広さや揺れる樹々、肌を撫でてゆく風の匂い、隣にいたひとの声、言葉、想い。
もう一度……。

そう、もう一度と思えるからしあわせ。
その日その場所そのひととの二度はない時。それを真珠のように胸に抱いているからしあわせ。

もう一度と願うような瞬間も、二度目は喜べても、三度目には結末のわかりきったお芝居になる。
So it goes.
そうつぶやくしかなくなる。

・・・・・

「大量殺戮を語る理性的な言葉など何ひとつない」
だから、ビリーは閉じ込められた。閉じ込められて、語らず体験し続けることを強いられた。
カート・ヴォネガット自身が1945年のドレスデンの体験に閉じ込められていた、ということなのかもしれない。




「あるときの物語」
そうだった。
物語っていうのは、もともと時間を超えて空間も越えて、存在するものだった。
よね? 
だから、「源氏物語」の朧月夜も「オデュッセイア」のペネロペもいきいきと生きている。なんてことにまで思いが翔てゆくのは、ナオが語る「Time Being」に心惹かれたから。


2000年代の初め、16歳のナオが、架空の友人にあてて書いた言葉。
1945年に戦死したハルキが、母にあてて綴った言葉。
2011年の津波の後、数年を経て。
ナオとハルキの言葉が、カナダの海辺に住むルースのもとで、物語としてあふれ出す。

眠っていた言葉が、時間と空間を超えて、ルースの心に届く。
物語を読み続けるルースの感情が、物語にも干渉してゆく。

ナオの物語を読むルース。
ナオの物語とルースの物語を読む、わたし。
ナオとルースとわたしがおおきなひとつの物語の中にいるような。


「正法眼蔵」で説かれる「有時=Time Being」を物語で、知る?考える? 
いやそこまではいけない。ぼんやりと感じる程度だけど、「いま」「ここに」「存在」するということに思いを誘われる。心地良く。



そして妄想する。
ルースがナオの物語に干渉したように。
もしかしたらこの物語に、私が、干渉してたらステキ、と。
ルースの手にしたノートから言葉が消えて、書き換えられた(?)ように
私が手にした本にも同じことが起きて、ほかの読者とすこしばかり違う結末を読むことになってたりしたら………なんて。
妄想して、ふふふ。



・・・・・・・・・・・・・・
はにゃ。さん ありがとう♪






「セラピスト」

2017年4月11日 読書
「セラピスト」

セラピストとは、語りのための沈黙を準備するもの。



読み始めてから読み終えるまでずいぶん時間がかかった。
読み難かったわけではないけれども。
セラピストの仕事から離れて<対話>ということを考えながら読んだ。



向い合った相手がなにかを語ろうとして、言葉を探している…その間を待つ短い時間が好きだ。

私は、会話の、どちらかと言うと受け手側にいる。
どんなことでもいい。相手が発した言葉がきっかけになって、私の中から記憶が掘り起こされて、考えや想いが生れてくる。それを言葉にして返す。
相手がなにを話そうとしているのか、どんな言葉が聞けるのか静かに(密かにわくわくしつつ)待つ。
言葉を探すひとと、それを待つひとのあいだに生まれる「沈黙」の間に、その対話のもっとも大切なエッセンスがある……と実感できるような対話がもてたらしあわせだろう。



   



「狼が語る Never Cry Wolf」
いまでは考えられないけれど、1960年頃には「オオカミは北極圏で毎年数百人の人間を食い殺す」とか「一頭のオオカミが一年に何千頭ものカリブーを衝動に駆られて殺す」と信じられていたらしい。
血に飢えたオオカミの伝説。

カナダ政府の調査員として害獣オオカミの調査にでかけた若きナチュラリストが、オオカミの一家とふた冬を過ごしたときの話。

原題にある「Cry Wolf」という言葉の意味は、ありもしないことを言い立てること。その元は「オオカミが来た!」と叫んだ少年が登場するイソップ童話らしい。それを Never で打ち消して、オオカミへの誤解を解こうとしている。

出版されたのは1963年で、オオカミに関する記述には生物学者としての信憑性に欠ける部分もあるという評価のようだけれど、それは著者がオオカミにどうしようもなく魅せられてしまった感情を隠さず書いているからで、それくらいオオカミの家族が魅力的なのだよね。
前に読んだ「積みすぎた箱舟」にしても、20世紀中盤までは自然を記述するときの科学的態度が確立されてなかったんだろうけれど、そのぶん、読み物としては語り手に感情を乗せやすくて楽しい。
「狼の群れと暮らした男」にしても「狼が語る」にしても、その魅入られっぷりが読んでてシアワセ感をくれる。
私もオオカミ贔屓なので、オオカミ本を見つけると読まないではいられない。








読み終えた翌日も一日ストーナーの人生が心から去らなかった。
なんだろう、人生の、「どうしようもなさ」がひたひたと胸に迫るようで。

99.99%の平凡な人間にとって、人生の大半はうっすらと幸せではない。かといって不幸なばかりでもない。歯切れの悪い表現になってしまうのは、人生には「どうしようもなさ」が詰まってるからかな。

波乱万丈でも、成功物語でも、宿命の悲劇ですらない、なのにストーナーの地味な人生から離れられなくなる。彼の平凡さは読む者のなかにも十二分にある平凡さだからかな。
ストーナーの一日一日に積み重なる塵のような小さな悔恨や無力感、疲労、諦めが読みながら染みてくる。降り積もる塵は人生の重み。人生って、こんなもんだし、どうしようもないし、少し哀しい。
でも、だから、小さな情熱や啓示、出会いや思慕、驚き発見……それが慰めになる。
小さな小さな。歓びと表現するのも大げさなような、つかの間の慰め。儚くて牡丹雪のようにすぐに消えてしまうものだし、そんな慰めさえまた人生のやるせなさを思い出させるだけなんだけど。


「ノスタルジア」の主人公が、手の中のロウソクの火が消えないように歩く姿をなぜか思いだした。






最初の刊行は1965年。
日本での出版は2014年。
翻訳は東江一紀。これが最後の翻訳だったんだね。
50年も前に書かれたものだけど、いま、50代で、美しい日本語でこれを読めてよかったなぁと思う。




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