橋本治のドキュメントは容赦ない。
橋本治にはなにもかも見えてたんだね。
<女>のこと。
少女だろうが、娘だろうが、女友達だろうが、妻だろうが母親だろうが、姑だろうが祖母だろうが、<女>のすべてが見えてたんだ。読みながらごくりと喉が鳴る気がした。冷や汗が出る。
この六つの短編を書いたのが男で、橋本治で良かったと思う。じゃなかったら読めなかったかもしれない。<女流>作家がこれを書いてたらきっとうんざりした。角田光代が書いてたら吐いてた。
橋本治が書くから、「こ れ は フ ィ ク シ ョ ン」と自分にささやくことができる。角田光代が書いていたら、「ああそう。書いちゃうわけね」と。だから作家ってイヤと思うだろう。
それくらい、身に覚えがないとは言い切れない、リアルなあれこれだから。
橋本治の才能に唸る。
「ストリート・キッズ」や「解錠師」の流れにある物語。
で、法廷ものでもある。好きな要素がダブル。
成長物語と法廷劇とが交互に語られている。怒りや悔しさに囚われてもがく少年のダニエルと、殺人の罪に問われた子供を弁護する青年のダニエルがどちらも魅力的。
青年ダニエルの回想から、この先に酷い<裏切り>があることはわかっていて、でも、わかっていることがマイナスにならない。むしろ、読者が、<裏切り>を予感しつつ読み進めることで暖かな田舎暮らしの進展にもサスペンスが漂う。
お尻の大きな、ざらざらの手をしたミニーが言う。
「いまはそうは思えないかもしれないけど、あんたは自由になったんだよ。――もう自由になったんだ」
・・・・・
ひとは、人生のどこかで、親を捨てないと自由になれないような気がしてる。
特に同性親かな、、ううん、やっぱり<母親>かな。
男の子にとっても女の子にとっても、当たり前だけど、母親がすべてという時期ある。Teen って数える年齢になる前までは特に守られていると思う気持ちが大事なんじゃないのかな。子どもを守れない女は母親じゃない。人生をまだ10年しか生きてない子どもが、母親を心配して泣いてるなんて間違ってる。
12歳で、母親に「もう電話しないで」と告げて、私は安らかになれた。12歳の子どもにはどうにもしようのないことで心を乱されることはもうなくなったって。<自由>という言葉は思いつかなかったと思うけど、自由になったんだと思う。
私は、産んだだけで<母親>だと言う女のひとを嫌悪している。
これを書きながら、ちょっと怒っているので、決別したつもりで何十年経っても、完全に自由にはなれてないんだろうと思う。それほど<母親>というのは、呪うものなんだってことだね。母親の血にまみれて生れてくるんだから仕方がないか。決別したって、生まれなおすこともできないし。
あぁ、私、怒ってるなぁ…これ、書き終えたらチバを聴こう(笑)
・・・・・
成長物語のなかの<裏切り>も、法廷劇の結末も、どっちも「……かな?」って想像した通りで、驚天動地のクライマックスというわけじゃない。でも、それがよかった。<裏切り>も<罪>も人生の傍らに普通に転がってると思う。法で裁かれるようなことじゃなくても。むしろそのほうが毒かもしれないけど。
原題「THE GUILTY ONE」は実在の少女が母親に宛てて書いた手紙の「THE GUILTY ONE IS you not me.」(原文ママ)からとられているらしい。少女は11歳だった。
良い物語だった。
ミニーのごわごわのウールに頭をつけて、ジンの匂いのする息を嗅ぎたい。想像すると、胸が苦しくなって暖かくなる。
Thank you, Hanya。
「フェイクニュース」
2019年4月16日 読書
ネット世論操作は近年各国が対応を進めているハイブリッド戦という新しい戦争のツールとして重要な役割を担っている。ハイブリッド戦とは兵器を用いた戦争ではなく、経済、文化、宗教、サイバー攻撃などあらゆる手段を駆使した、なんでもありの戦争を指す。この戦争に宣戦布告はなく、匿名性が高く、兵器を使った戦闘よりも重要度が高い。EU、アメリカ、ロシア、中国はすでにハイブリッド戦の体制に移行している(あるいは、しつつある)。そのためフェイクニュース、ネット世論操作はハイブリッド戦という枠組みのなかで考える必要がある。単体でフェイクニュースのことを取り上げても有効な解決策は生まれない。
別な角度から考えるとフェイクニュースとネット世論操作は社会変化を反映しているとも言える。ネットの普及がもたらした社会変化のひとつであり、民主主義の終焉でもあり、低い文章読解力がもたらした弊害でもある。フェイクニュースというのは我々の社会が、現在直面している軍事、社会、そして民主主義の危機を象徴している。単純にファクトチェック組織を作るとか、事業者が管理を厳しくするとかで解決できる話ではない。
「フェイクニュース ― 新しい戦略的戦争兵器」 一田和樹著
読み難い。文章はそうでもないんだけど、本文中に引用元の註がつき、その多くが英語文献で日本語表記も横書きになったり、カッコ、カギカッコ、二重カッコも多くて。読み難さに堪えて読んでも、「ああ、もうダメじゃん」って気分にしかならないし。
世界レベルでは。
ハイブリッド戦大国のロシアの、叩き上げKGB出身のプーチン相手に、バカボンボンのあの方が同じ土俵に上がれるはずもなく…。
国内でも。
SNS、とくにツイッターで時事情報を追ってコメントを読んでいると、「なんなんだろう、この言葉の通じない感じは、、」とうんざりすることあるんだけど。
紋切り型の文言を脊髄反射的に何度でも返してきてへこたれない感じ、、これボット、とかトロールとかなんだろうなぁ、と。
それと、日本の機能的識字率が下がっているということ。
長く、日本は識字率の高い国と思ってきたけれど、実際識字率の調査自体1955年に行ったのが最後で、その時点でさえ機能的識字率―基本的な文章読解力―は低かったという。現在で例えて言うなら「ツイッターはできても文章の意味は理解していないひとたち」が多いということ。なんかネットでの実感としてわかる。そういうひとがネットでハイブリッド戦の戦力となる。「話せばわかる」なんてありえない段階なんだよね。
私たちひとりひとりがネットリテラシーを磨いて、デマに振り回されないように……そんな段階じゃない。
じゃあネットなんか見なければいいじゃない……そんな段階でもない。
もう既に戦時下なんだ。宣戦布告もなく、同盟非同盟の区別もなく、内部から崩壊してゆく戦争。
いや待て。この本自体が壮大なフィクション、フェイクかもしれない。
ファクトチェックするか! …ってさぁ。巻末の参考文献15ページあるよ、ほとんど英語だよ。戦時下のファクトチェックなんて、個人のリテラシーの話じゃないってこと。
暗澹とした気持ちになる。
だめだ、もうダメ。チバの声に溺れて現実逃避して余生過ごすしかないわ。
「南三陸日記」と橋本治と美しい国・ニッポン
2019年3月19日 読書
廃墟と化した神戸とそこに生きる人達をテレビで見れば、いかに想像力が貧困な人間でも、「自分たちの住む街に訪れる惨状」を容易に理解することができる。そうやって“所詮テレビから送られてくる画像”でしかないものを、“自分たちにとって意味のあるもの”として理解した。そしてその次にこっそりと思う。これは、いかにも「この事態に対して不謹慎極まるようなこと」だから、誰も表立っては言わないだろうけれども、しかし、多くの人はこう感じているはずだ。つまり――「羨ましい……」と。
被災地には、お互いに助け合う等身大の人間たちがいる。安全な大都会にはなくなってしまったような、“温かい人間関係”がちゃんと復活している。「もしも自分がそこにいれば、自分だってちゃんとそのコミュニティーの中の一員として生き生きと行動できるのに」と思わせるような“人間の生活”がそこにある。「生活の一切を奪われる」ということが、とても恐ろしいことだとは、重々承知している。そういう目に遭ってしまった人を“羨む”などということはとても不謹慎でできない――そのことも重々承知している。自分たちが“あんな目”に遭ったりしたら、震えあがってしまうだろう。現在の自分は何も失ってはいない。そして失うことを恐れている。しかしそれであるにもかかわらず、「一切を失ったその時に、お互いが助け合えるような本当の“人間の生活”――等身大の自分のままで生きていけるような状況があるのだとしたら」と考えたら、自分の中にある“不思議な感情”の正体が「羨ましい……」であることくらいは、すぐにわかるだろう。
そうだ。羨ましいのだ。
なぜ震災のドキュメントを読まずにいられないのか。
風化させてはいけない、忘れない、、、それももちろんある。真摯にそう思う気持ちもほんとうだ。でも、それは表向きの“正しい” “口外できる”動機でもある。
そう、不謹慎だから決して言えないけれど。うっかり言ったら、あんな未曽有の大災害を、悲しみに耐えている被災者を“美しい物語”として消費しようとしてるのかと誹られそうで。
でも、読みながら支え合う健気さを羨ましく思っているのは事実だ。もちろんドキュメントされない暗い醜い感情や仕打ちがないはずはないとも想像しつつ。
上の引用は、橋本治が雑誌に書いた「それでもまだ日本人は、この揺れる大地を私有しなければならないのか」というコラムからの抜粋。1995年の文章。阪神淡路大震災の後に書かれたものだ。続きはこうだ。
一番重要なのは“そのこと”なのだ。自分たちが等身大の人間として、当たり前のように生きていけること――これだけだ。
人が助け合いながら生きていくということが、どれほど羨ましいことなのか、分かる人には分かるだろう。そしてしかし“貧しい人たちがお互いに助け合う”だけではどうにもならないような現状も、あきらかにあるのだ。
市民たちのささやかな助け合いにあまりにも依存しすぎて、「そこをどうするか?」という大きな発想が欠落している――これが悲しい日本の現状だと思う。
・・・中略・・・
しかし“国家”というのは、その助け合うことをする国民が作っているものなのだ――それこそが本来なのだ。
我々はまだ一度もその、“本来”に出会ったことがなくて、それだからこそ、個々人のささやかな“善意”によっかかり過ぎている。
私は今度の大震災で“まともな国家”というものの必要性を改めて感じた。
「小論集 夏日」より
橋本治の訃報のあとこのコラムを読んでいたので、「南三陸日記」を読みながら橋本治に「な、羨ましいだろ。いいんだよ」って言われてるような気がしてた。橋本治じゃなきゃ「羨ましい」とは書けないから。それを書くのが作家の仕事だよね、と思う。
それから、日本が、阪神淡路のあと、東日本大震災を経て8年経ってもまったく“まともな国家”になってないってことに暗澹たる気持ちになる。
1995年どころじゃない。昭和の、高度成長期の明るさを信じて暮らした戦後の日本人を懐かしく羨む気分も根っこは同じなのかも。
戦争や大災害のあとの健気な日本人を羨むほど、日本ってずっとずっと貧しかったんだな。国のカタチが貧しいんだ。いまも。
なんて情けない話なんだろう。
「キューポラのある街」
2019年3月17日 読書「キューポラのある街」は観たことない。
吉永小百合の映画だと、タイトルを知っているだけ。
原作の小説を読んでみようかなんて思ったのは、このあいだ行った立石の昭和感がまだ気持ちの中に残ってたからかな。
吉永小百合や倍賞千恵子が工場の煙突から立ち上る煙を眺めて東京の青い空〜って歌ってるような街、、って教えられてた。行ってみたら、立ち食いの寿司屋に30代の倍賞千恵子さんみたいな奥さんがほんとにいた。三角巾をさらっと結わえて、きびきびと立ち働く女将さん?が、寅さんの妹のさくらみたいで、わぁ、この町に、このお店に似合い過ぎ(笑)
立石を東に行けば柴又で、荒川をすこし上ればキューポラの町、川口。倍賞千恵子、吉永小百合…そんな風につながったのかも。
すこやかな成長物語なのかなと思って読み始めた「キューポラのある街」だけど。
「どんなちっぽけなものでも、そこは鋳物工場でしょ。労働者がいて、工場と名のつくかぎり、労働者の権利は守られなきゃならないんだわ」
ノブ子は、熱心に乗り出してくる。
「ね、ジュン、組合がないのなら、どうして、みんなで組合を作ろうとしないの」
なんという世間知らずのお嬢さんだろう――とジュンはびっくりする。
ノブ子とジュン(映画では吉永小百合)、15歳。中学3年生の会話がこれ。
平成31年だったら、大学生でもこんな会話しないだろうな、“労働者”であるひとたちでもしないね。
もちろん作者が社会情勢を投影して、語らせているフィクションなんだけれど。
小学生の弟は伝書鳩を育てて、どうやって売れば儲かるか算段したり、それでトラブルになって非行に走りそうになったり。姉のジュンが愚連隊に直談判に乗り込んだり、、、愚連隊、、死語だわぁ(笑)
キューポラの街のジュンの家は貧しくて、どうやって高校へ進学しようかと思い悩んでるんだけど、この主人公を、身体中に希望と朗らかがぱんぱんに詰まってそうな10代の吉永小百合さんが演じてると思って読んでると、なんだかすごく安堵感が生れる(笑)
60年前の児童文学。
「草薙の剣」の昭和クロニクルのひとつのエピソード読んだような気がした。
私の知らない昭和のおさらい。
「九十八歳になった私」
2019年2月22日 読書 コメント (2)
年を取るのはめんどくさい。「今日もまた生きている」とだけ書いてある日めくりカレンダーを、毎日めくっているようなものだ。毎日が、えんえんと続く。
・・・・・
「長生きは健康によくない」
・・・・・
老人とは存在自体が不本意である、生きた自己矛盾である。
・・・・・
(いい加減、俺のことなんか忘れてくれって。眠いんだから)
(あ、これいいな、絶筆にしよう)
いい加減、俺のことなんか忘れてくれ。眠いんだから。
絶筆
(自分で絶筆って書くバカもねェな)
ショートパンツにニーハイソックスで、チャックテイラー履いて歩きまわっていた20歳の頃。
「歳をとったら東京都民はバス乗り放題の老人パスがもらえるんだって、いいなぁ、それ使って毎日放浪して暮らしたい、はやく老人パスが欲しい」
ということを本気で言ったことがあった。ひゃあぁ~なんてノーテンキな(汗)
橋本治の桃尻娘を軽薄とかってどの口が言うんだよ、ってなもんだわね。
老いるということを、舐め切ってましたね。ごめんなさい。
5年ほど前に吉本隆明の「老いの超え方」を読んだ時には
「老いるということがどういうことなのか、ちゃんと知りたい。知って体験したい。なんかこう、楽しみにしたいじゃない?」
なんて余裕ぶっこいたこと書いたけど、このときもまだ甘いね。
ちゃんと知って体験したいとは思うけど、楽しみに、できるんだろうか?不安になってきた(笑)
戦後百一年、東京大震災後を生きる橋本治98歳の日記(未満)のような、ひとりごとのような、あれこれ。
目が覚めて、しばらくはなにも分からない。なにかに気がついて、「なにに気がついたんだ?」と思って、やっと、「自分は今日もまた生きている」ということに、気づいたんだということに気づく。
・・・・・
生きて老残の姿を晒すの。それを堪えて生きるの。滑って転んで骨折って、ヨタヨタレロレロになって生きるの。そういう自分に堪えるの。それが人生なの。
橋本翁の頭の中ではあれこれ思念が湧いていて、たぶんその思念を転がすだけで本人はそこそこ退屈もうっちゃれてそうだけど、でもたぶん、傍からは――ボランティアのバアさんとか、50代になったゆとり世代編集者とか――耄碌して、ややボケてるようにも見えてるだろうな。布団から身体起こすのも容易じゃないし、ウイロウ食べると口の中の水分吸い取られそうになるし、、、生きていることがすべて難儀だったり困難だったり…。
老いるって、老いって、、、手強い。。
誰が言ったのか忘れたけど、「寿命が延びるというのは、老後が延びるということだ。それのどこを寿げるのか?」と読んだことある。
そうなんだよね。寿命が延びたからと言って、青春期や青年期、壮年期が均等に時間を増やすわけではないってことなんだよね。
さすがに老人パス持ったらルンルンで遊び歩けると思うほどのノーテンキではなくなって、いまは、98歳まで死ねなかったらどうしよう、、、って将来が不安になってきた(笑)
橋本治にはもうちょっと生きててもらって、「老い」のナビゲーションもしてほしかったな。
誰も悪くない。父も。母も。それなのにどうして自分は苦しいのだろう? 「かつて若者だった大人は、根拠のない夢を変わらずに見ているしかし、当の若者には絶望しかない」と、誰かが言っていた。
登場人物は多い。
ポケモンGOが上陸する一年前に62歳になる昭生。豊生、常生、夢生、凪生、そして12歳の凡生。10歳違いの6人。その6人の父母、時には祖父母まで。むしろこの名前のある6人よりも、常生の父、夢生の母方の祖父、などと呼んで語られる文字通り「無名」の人々のほうに文字数は多く割かれているかもしれない。
昭和の始まりから、平成の終わりまで90年余りを記述したクロニクルであり、この年代にたまたま生まれついてしまったひとの泡のような人生のドキュメントだ。
男と女が出会うことにも、子が生まれることにもドラマチックなものはかけらもない。親と子は断絶しているし、親世代の思いも感慨も思い出も、子世代には何の価値もなく継承されない。でもそういうものだったと思う。どこかでその感覚を実感したことがあった気がする。交わらないまま、それぞれの人生はパラレルに続いてゆく。
人生という言葉ほどにも、ドラマチックでも特別でもない生を過ごすしかないのが無名の私たちだけれど、たとえば満員電車に乗り合わせたひと達のひとりひとりの生い立ち、暮らしがいきなりホログラムのようにいっせいに立ち上がって可視化されたら、息苦しくて気持ち悪くなりそうだけど、見えない聞こえない感じないですんでいるだけで、そういう生がそこにある。蠢いて。
そのホログラムの片鱗がここに描かれている。
読みながら思い出していたのが「ベルリン天使の詩」でホメロスがひとりごちるこの言葉。
「今は一日一日を思うのみ。勇壮な戦士や王が主人公の物語ではなく、平和なもののみが主人公の物語。乾燥たまねぎでもいいし、沼地の渡り木でもいい。だれひとり平和の叙事詩をまだ、うまく物語れないでいる。なぜ平和だと誰も高揚することがなく、物語が生まれにくいというのか」
平和な時代の叙事詩。
この90年は平和とも言えなかったけれど。戦争は終わっても、経済が繁栄していても、つねに不穏だったのだとこのクロニクルを読んで思う。未来は不明瞭で、そして90年間日本は実はとても貧しかったのだと思う。そして英雄はいなかった。
ホメロスが物語れないでいた英雄のいない叙事詩を橋本治が語った。
英雄のいない物語は退屈で、時代もまた閉塞して老いてゆく。でも、この6人とその父母、祖父母の物語の断片を読みながら、そのシーンの、描かれてはいない舞台の隅を横切って歩く私の父の姿が見える気がした。私自身の、14歳、ハタチ、24歳の姿を見た気がした。
青年だった父はなにを思っていたんだろうなぁ、とぼんやり考えているけれど、この小説はその思いに繋がっている気がする。年が明けてから続けて読んでいる「東京骨灰紀行」「生きるとか死ぬとか父親とか」も、意図して選んだ気はないのだけれど、やっぱり世代とか時代を、立ち止まって振り向いて思いめぐらせる気分に繋がるものだ。
なんなんだろう。平成の終わりに、時代と自身の老いを感じてノスタルジーにひたっているんだろうか。
引用した「かつて若者だった大人は…」は誰が言った言葉だろう。気になって探したけれどわからない。中島敦の名前が引っ掛かってあがってきたりはしたけれど。「誰かが言っていた」もふくめて橋本治の創作だろうか。
それと。草薙の剣と、それよりも重要な名前のない火打石のはなし。
父に疎まれたヤマトタケルが、遠征地で野火に囲まれたのを向火(むかいび)を放って窮地を脱したという逸話が最後に語られている。「草薙の剣」に続く物語として「向火」を読みたかったなと思う。残念。
「生きるとか死ぬとか父親とか」
2019年2月5日 読書 コメント (2)
私が父について書こうと決めたのには理由がある。彼のことをなにも知らないからだ。一緒に過ごしてきたあいだのことはわかっている。しかし、それ以前のことはチカコ姉さんが誰かわからないように、はっきりとしない。一緒に過ごしてきたこの四十数年だって、私が目で見て感じてきたことでしかない。いままで生きてきて一番長く知っている人のはずなのに。私は父のことをなにも知らないも同然だ。
母は、私が二十四歳の時に、六十四歳で亡くなった。明るく聡明でユーモアにあふれる素敵なひとだった。しかし、私の前ではずっと「母」だった。彼女には妻としての顔もあったろうし、女としての生きざまもあったはずだ。
私は母の「母」以外の横顔を知らない。いまからではどうにもならない。私は母の口から、彼女の人生について聞けなかったことをとても悔やんでいる。父については、同じ思いをしたくない。
最近、友人と同じような話になる。
両親ともに他界した友人、母親が健在の友人、両親ともに健在の友人、両親とも亡くなった私。みな自分が人生をとっくに折り返して、意識の上でもう誰かに庇護される「子ども」ではなくなっているからかな。
私がふと思うのは、私の年齢の時の父が、どんなこと考えてたんだろう?ということだけど、たぶん、私はそれを本気で知りたいとは思ってないかもしれない。
もう父も亡くなって訊いてみることもできないから、だから父を懐かしむかわりに知りようのない面影を空想するのだと思う。生前に、そういう話をしなかったことをあまり悔やんではいない。子供時代青年時代のエピソードなら聞けただろうけれど、それは娘が許容できる「父」の顔を逸脱しない話だ。父の「父」以外の顔など、知らなくていい。私は、たぶんそうだ。
母(実母)については、これはパンドラの箱だ。もう開けようのないのが良かった気がする。
ジェーン・スーのお父さんは「女によく好かれる男」だそうだ。女に「この男になにかしてあげたい」と思わせる能力が異常に発達している77歳、だそうだ。
うん、読んでて、わかる気がする。それがわかるように書かれてるってことは、彼女はお父さんが好きなんだろうな。いろいろあって、腹立たしさも詰りたいようなことも抱え続けているようではあるけれども。
私には、親と、ひととひととして向き合う根性はない。
もういないから、知りようのない問いを立てて物語を想像することで父を近くに感じる遊びを楽しめる。
アスファルトの下に累々と埋もれる、江戸・東京の骨灰。明暦の大火このかた、震災と大空襲の犠牲者までをまとめてご供養の両国から、小伝馬町の牢屋敷跡、小塚原の仕置場跡、地下鉄サリン事件の築地、お骨の大量入居地、谷中墓地に多磨霊園…。無数の骨灰たちの彼方に、この国の首都の来し方、忘れ去ってきたものが見えてくる。東京の記憶を掘り起こす鎮魂行。「BOOK」データベース
神田岩本町界隈を歩いていて、「千葉道場跡」という史跡案内に足を止めて見たことがあった。
千葉道場?千葉周作?幕末の有名人のひとりだっけ?へぇ、こんなとこにいたんだ。で、そのまま通り過ぎて幾歳月。
こんなとこって、さてどんなとこだと思ってたんだろうか。テレビの時代劇でなんとなくイメージする江戸の町が今日歩いた東京と同じところだなんて考えたこともなかった。
この本を片手に町名を頼りに歩いたとしても、四角いビルとアスファルトの街並みにそれらしい気配を感じることはできそうにもない。むしろ文字を追いながら想像する風景のほうが、江戸・東京という土地の地下に埋まっているものを感じられる気がする。
歴史というのは、ほんとうにただただひとの生き死にの積み重ね、文字どおり死屍累々と積み重なった骨灰の時間なんだと思う。まして都市というのはひとが集まる分だけ骨灰も累々積み重なる。
私ひとりがいまここに存在するために、いったい何人の人間が必要だったかと思う。親ふたり、祖父母4人、曾祖父母8人、、、ちょっと遡って倍々するだけであっという間に1000人超える。先祖代々の墓、、なんてものにはいっている人は遡って何代でもないだろう。名のある家でもないからね。それ以前の皆々様は?東京はもちろん江戸にもいなかったろうから、きっとこの列島のどこかでひっそり朽ちて土に帰ってるんだろう。国土というのはひとの骨灰でできあがっているんだ。
なんて書いてると、陰鬱鬱々とした本みたいだけど、筆者の語り口は永六輔とか小沢昭一みたいに軽妙洒脱で、でもぴりりと刺すところもあって読みやすい。
だけどこれからは日比谷線で小伝馬町なんかに停まったら思わずナンマンダブって念仏のひとつも唱えちゃうかもしれない。
再読。何度目かの。
「冬を怖れた女」この邦題が良い。
謎めいてノスタルジックな響きがあって、センチメンタルだけど冷え冷えとハードボイルドだ。
私にとってマット・スカダーは古典なのかも。だから何度でも読める。
シリーズの第2作。1976年発表。邦訳は87年。
当然マットはまだ飲んでいる。
アームストロングの店でバーボンを垂らしたコーヒーを飲みながら「ポスト」を読んでいる。「酔ってもいなかったし、素面でもなかった。ほどよくバランスが取れていた」そこへ、顔見知りがやってくる。
依頼人がいて探偵仕事として始まる初期の作品が好きだ。
シリーズ後半、サイコパスが登場して否応なくマットも事件の当事者になってゆく展開よりも。まだTJもミッキー・バルーも登場しないけれど。
死んだ女の番号をまわして、置き去りにされた留守番電話の声を聞いてしまうマットの孤独が好きだ。
そろそろ本シリーズの続きが読みたい。
「すべては死にゆく」で、ABは逃げ延びてるんだから、続きはあるはず。
でもなぁ、マット、そろそろ80歳超えてるような気がするんだけども。
「償いの報酬」みたいな過去ものでもいいけど。
「終わりと始まり 2.0」
2019年1月10日 読書2013年4月から2017年12月まで朝日新聞夕刊に掲載されたコラム。お正月休みの読む本を図書館で見ていて、「あ、池澤夏樹♪」と借りてきたけれど。
読んでいて途中でうんざりした気持ちに呑まれてしまった。
明るい話題は少なかった。なんといってもこの間の安倍政権というのがひどかった。日本という立憲民主国の品位をとことんまで落とした。さらにアメリカには安倍を派手に、大袈裟に、「まさか嘘でしょう」級のパロディーにまで拡大したトランプ大統領が登場した。冗談の域を超えた冗談で、しかしこれが現実。そういう5年間だった。
それを嘆いても、レトリックを駆使して彼らを揶揄しても、選挙の結果が変わるわけではない。どこまでいってもぼくたちには言葉しかない。
「終わりと始まり 2.0」あとがきより
ほんとうに。そういう5年間だった。
月イチ、一か月単位の現代史を記録し続けながら、池澤夏樹も疲労困憊しているように見える。背を丸め肩で息をしつつ重いペンで言葉を書き継いでいるような。読んでいても嘆息しかでてこないんだから。池澤夏樹の言葉をもってしても美しくは描きようのない5年。
来年(もう来年の話だ!)オリンピックが終わったら、日本は廃墟になるんじゃないか。
「終わりと始まり」というタイトルは、シンボルスカの詩のタイトルで、その詩は酷い終わりのあとに静かに動き出す始まりについて描かれているのだけれど、いまのこの国はまだ「終わりの始まり」にいて、酷い終わりに向かって動き出していることを見ようとしていない。一度は酷く終わらなければ始まらないのだろうか。すでに一度、酷い終わりは経験したはずなのに?
“退屈した人たちが そわそわし始め”
“錆ついた論拠を掘り出し ごみの山に運んでいく“
「終わりと始まり」 ヴィスワヴァ・シンボルスカ
http://www.haizara.net/~shimirin/on/akiko_03/poem_hyo.php?p=5
この小説を説明することが私にはできないので。
https://style.nikkei.com/article/DGXKZO11975330R20C17A1MY6001
髙村薫は文豪だと、ほんとうにそう思う。
2011年の東日本大震災のあとに書かれた小説に、やっと文学として昇華された作品が生まれたのだなぁと思う。
私たちはカタストロフィを見てしまった。
あれほどのカタストロフィがあると知ってしまった。
その衝撃をそのエネルギーのまま意識して生きることはできないけれど、文字通り、突然に足下が崩れ去ることがあると、首筋のあたり、土踏まずのあたりで、うっすらと予感し続けている気がする。
それでも。
それでも、だ。
揺れ動く大地を逃れて
逆巻く大海を避けて
宙に浮くようにして生きることなど私ちにはできない。
土のうえで、土の恵みをかき集めながらしか生きることはできない。
だから、雨の音に土の変化に最大の関心をはらう。
なのにいつも思い出すのは「自然は人間に無関心だ」という言葉。
311のあと池澤夏樹が「春を恨んだりはしない」の中で書いていた言葉。
自然は、人間になど、忖度しない。
自然と人間は and でつないで並び語られるようなものではない。これっぽっちも対等じゃない。そのことに呆然としつつなすすべがないのでまた稲籾を整え、苗を育て、田に植える。大地のほんの薄い表膜を借り、植物の力を借りて土と繋がる。それしか生きるすべはない。
平成7年の大震災、23年の大震災、大水害、、雨の音の向こうにカタストロフィの気配が通奏低音のように聴こえてくるけれど、それでも、生命力にあふれた女たち、太陽エネルギーを直接取り込む植物、大地に呑みこまれても押し流されても新たに生れることをやめないムシケラども、、奈良の土地に千年万年続く営みが圧縮されてむせ返るような生命のエネルギーが小説世界に充満している。
一握りの稲籾を見ながら、手の中に大宇陀の大地を見、そこからGoogleEarthで高度を上げてゆくように移ろう伊佐夫の思念を通して語られる、超自然と自然と人間のそれぞれを淡々と眺めるような描写に引き込まれた。
Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow
Creeps in this petty pace from day to day,
To the last syllable of recorded time.
「Macbeth」
・・・・・
この本は、6月中旬に読み終えていた。日記に書きたいと思ってもうまくまとまらずにいて、大阪に地震が起こり、西日本の大水害、複数の台風、そして北海道の地震と立て続け。絶句するしかなく、書けずにいた。
これほどカタストロフィの多い列島に住む私たちにかける見舞いの言葉も浮かばない。
赤い惑星とブラッドベリ
2018年9月3日 読書 コメント (4)惑星という呼び名が好きだ。
なんだか色っぽい。
眩惑、蠱惑、魅惑、誘惑……。
疑惑、迷惑、困惑、当惑……惑わす、星。
ブラッドベリとは相性がいいとは言えないのだけれど、ときどきページを開いてしまう。正直あんまり面白いとは感じていないんだけど。“ブラッドベリに夢中になる少女”的なものにあこがれてるのかも?しれない。なんだろ、それって?
2018年の夏。ブラッドベリの描く未来をおおかた通り過ぎてしまっているって気づく。「火星年代記」で地球人が火星へ移住し火星人を征服したのも過去の話で。2000年代には地球で核戦争が起こってたんじゃなかったっけ?
そんなことを思うだけで、奇妙に捻じれてもの哀しい空気がたちあがるのがブラッドベリと思う。
このところ雲が多くて火星の姿があまり見えない。
俺たちのボタニカル・ライフ
2018年8月30日 読書いとうせいこう、サイコー。
「園芸家の12か月」を読んで、カレル・チャペックにあやかりたい(恐れ多くも 笑)気持になってしまうのわかるんだなー。はじめて見る植物を見て狂おしいほど手に入れたくなる気持、とか(じつは売り物ではなく、勝手に生えてきた雑草なんだけど 笑)
地方のイベントに呼ばれて、そこにディスプレイされていた小さなモミジの苗木を見て譲ってもらうくだりとか。(「ボタニカル・ライフ」)
苗を育てた青年が鉢を愛おしそうに抱えてやってきたのを見て、どんなに大事に育てたかを察し、「大切にします」みたいなこと言っちゃって、ふたりで感極まってる感じとか(笑) モミジは発芽率が悪くて、種から育てようと思って玉砕したことあるから、うんうん、よくわかるわぁ(笑)
この、「わかるぅ~」という感情が胸の中で震えて笑いになっちゃう。
庭やベランダで草木を育ててると、植物というのは生物としてのステージというかランク?位?存在感が別格だなぁと思う。そもそも植物がいなかったら動物は存在できないわけで、植物と動物を並べて語るなんておこがましい。
人間なんて植物に寄生してるダニみたいなもんで、まぁちょっといろいろできるから使ってやろうか、って植物の戦略にはめられてるような気もする。
卑近な例では、先週の札幌行き。決めてから「あ、ベランダの水遣りどうしよう?!」と本気で悩み、一度予約取り消した(笑)
家人に「ほんと、お父さんに似てきたね」と笑われ、入念に水遣りの仕方をレクチャーしてお願いして出発したんだけど、心配でならなかった。もう、夏の旅行はやめようと本気で思ってるし。
夏になると「ああ、また水遣り奴隷の季節…」と思ってきたけれど、冗談ではなく、ベランダの鉢植えに奉仕してる。嬉々として。植物に操られているかも……としみじみ思う。新芽がでた、蕾がついた、、、ただそれだけのことが嬉しくて。
蔓がのびる。花が咲く。そのよろこび。
「植物はヒトを操る」 トビラより
「コードネーム・ヴェリティ」
2018年8月27日 読書 コメント (2)
スパイというのは、蔑まれる存在だ。
戦時中で、祖国を守るためという大義が与えられていたとしても、本人がどれほどの純粋な使命感に突き動かされていようとも、スパイであるということは優秀な噓吐きだということだ。頭が良く機転が利き、上手な作り話をしそれを演じて見せることができる人間であるということだ。
戦火が燃え広がっている時ならば、ひとつの陣営で英雄になることはできるけれど、同時に別の陣営にいる誰かと結んだ信頼を裏切り続けているということでもある。
神経をすり減らして命がけで祖国に誠実であろうとして、なにかを欺く者。
戦争が終わったあとに、生き延びたスパイに心からの信頼を寄せる者は少ないと思う。なんの猜疑心もなく、無防備に接する者がいるかな? 味方であったとわかっていても。
書くこと。時間稼ぎでもあり、一縷の望みをかけて情報を伝えようとすることでもあるけれど、書くことが彼女を支えていたのだと思う。マディの物語を書くことは、クイーニーが生きたかった青春を生きること。後ろめたさのない、まっすぐな人生を生きること。クイーニーがまるでそこにいて見ていたかのように描かれる、マディの空を翔る日々の健やかさ。ふたりで過ごした時間を綴ったシーンの瑞々しさ。
暴力を受け、尊厳を剥ぎ取られ、恐怖にさらされてなお凛々しくあろうとするクイーニーの勇気の源泉だったんだろう。二十歳をいくつもでていないだろう彼女の、“ジュリー”の人生の真実を知ってほしかった、誰に!
凛々しく生きながらえることの困難さ。凛々しく老いることは不可能だろうな。凛々しさというのは、たぶん若さの一部なんだ。
だから、もはや凛々しくはないと自覚する大人、一度も“精神的な汚れ”を持ったことなどないと言い切る自信のない大人は、凛々しく生きた女性に心揺さぶられる。
エンゲルもペンも、複雑な仕事をして裏切りを働いている。
どちらも“協力者”だ。でもこのふたりにも、彼女たちの真実の物語があったはずだ。クイーニーと同じように。
クイーニーだって、彼女が尋問した二重スパイのドイツ人からしたら、唾棄すべき存在で、それは彼にとっての真実だ。
マディだけが自覚的には裏切りを働かなかった。
マディはまっすぐに飛び続け英雄になることもできるだろう。
だれも彼女の行為を責めはしないだろう。
それでも彼女ひとりだけが傷を負わずにはすまなかった。
彼女のしたことを、彼女は語れなくなるだろう。
彼は、彼女は誰なのか、だれが言うことが正しいのか、どの言葉を信じたらいいのか、、、真実がどこにあるのか、なにひとつわからなくなる、まっすぐ飛ぶことが困難な時代、誰も無傷で生き延びることなどできない時代、それが戦時ということなのかな。
うん、胸ふるわせる優れた戦時小説だった。
マディとジュリーが目にする奇跡的な緑閃光や、暗いドーバー海峡から見る遠くの雲に走る光、イギリスの海岸線。ふたりの若い女性の輝きそのもののようで美しかった。航空小説としても楽しんだ。
札幌で、寝る前に少しだけと読み始めてとまらなくなり、読み終わったのは午前10時を回っていた。その日は明るい時間をまるまる失った(笑)
戦時中で、祖国を守るためという大義が与えられていたとしても、本人がどれほどの純粋な使命感に突き動かされていようとも、スパイであるということは優秀な噓吐きだということだ。頭が良く機転が利き、上手な作り話をしそれを演じて見せることができる人間であるということだ。
戦火が燃え広がっている時ならば、ひとつの陣営で英雄になることはできるけれど、同時に別の陣営にいる誰かと結んだ信頼を裏切り続けているということでもある。
神経をすり減らして命がけで祖国に誠実であろうとして、なにかを欺く者。
戦争が終わったあとに、生き延びたスパイに心からの信頼を寄せる者は少ないと思う。なんの猜疑心もなく、無防備に接する者がいるかな? 味方であったとわかっていても。
わたしは彼女をうらやんだ。その仕事の単純さ、その仕事の精神的な汚れのなさを――“飛行機を飛ばして、マディ”。彼女がしなければならないのは、それだけ。罪の意識も、道徳上の板ばさみも、迷いも、苦悩もない。そう、危険はあったけれど。彼女は常に自分がそれに直面していることを知っていた。さらに私は彼女がその仕事をみずから選び、やりたいことをやっていることをうらやんだ。わたしはじぶんが何を“したい”のか、わかっていなかったと思う。だから、選ばれたのだ。選ぶのではなく。選ばれることには、名誉や栄光がある。でも自由な意思が入り込む余地はあまりない。
書くこと。時間稼ぎでもあり、一縷の望みをかけて情報を伝えようとすることでもあるけれど、書くことが彼女を支えていたのだと思う。マディの物語を書くことは、クイーニーが生きたかった青春を生きること。後ろめたさのない、まっすぐな人生を生きること。クイーニーがまるでそこにいて見ていたかのように描かれる、マディの空を翔る日々の健やかさ。ふたりで過ごした時間を綴ったシーンの瑞々しさ。
暴力を受け、尊厳を剥ぎ取られ、恐怖にさらされてなお凛々しくあろうとするクイーニーの勇気の源泉だったんだろう。二十歳をいくつもでていないだろう彼女の、“ジュリー”の人生の真実を知ってほしかった、誰に!
凛々しく生きながらえることの困難さ。凛々しく老いることは不可能だろうな。凛々しさというのは、たぶん若さの一部なんだ。
だから、もはや凛々しくはないと自覚する大人、一度も“精神的な汚れ”を持ったことなどないと言い切る自信のない大人は、凛々しく生きた女性に心揺さぶられる。
エンゲルもペンも、複雑な仕事をして裏切りを働いている。
どちらも“協力者”だ。でもこのふたりにも、彼女たちの真実の物語があったはずだ。クイーニーと同じように。
クイーニーだって、彼女が尋問した二重スパイのドイツ人からしたら、唾棄すべき存在で、それは彼にとっての真実だ。
マディだけが自覚的には裏切りを働かなかった。
マディはまっすぐに飛び続け英雄になることもできるだろう。
だれも彼女の行為を責めはしないだろう。
それでも彼女ひとりだけが傷を負わずにはすまなかった。
彼女のしたことを、彼女は語れなくなるだろう。
彼は、彼女は誰なのか、だれが言うことが正しいのか、どの言葉を信じたらいいのか、、、真実がどこにあるのか、なにひとつわからなくなる、まっすぐ飛ぶことが困難な時代、誰も無傷で生き延びることなどできない時代、それが戦時ということなのかな。
うん、胸ふるわせる優れた戦時小説だった。
マディとジュリーが目にする奇跡的な緑閃光や、暗いドーバー海峡から見る遠くの雲に走る光、イギリスの海岸線。ふたりの若い女性の輝きそのもののようで美しかった。航空小説としても楽しんだ。
札幌で、寝る前に少しだけと読み始めてとまらなくなり、読み終わったのは午前10時を回っていた。その日は明るい時間をまるまる失った(笑)
怖い。怖い怖い怖い。
ほんとうに怖かった。
読みながら、いまにも家の土壁破って襲ってくるんじゃないかと、背後ふりむいて確認したくなる怖さ。
東京にヒグマいないってわかってるのに。
「羆嵐」を知ったのはラジオドラマでだった。30年くらい前。
友達が録音していたカセットテープを「これ、すごいから」と言って貸してくれた。ふうん、と軽い気持ちで聞き始めて凍りついた。怖くて。
たぶん、いままで経験した怖い作品のベストかもしれない。映像作品含めて。
例えば「エイリアン」とか「ジョーズ」とか「シャイニング」とか、怖いけど、映像作品は目をつぶって恐怖の瞬間をやり過ごすことができる。でもラジオドラマだと耳塞ぐわけにはいかないし、映像がない分を嫌でも想像が補ってしまうように作ってあるので、見えない怪物が襲ってくるという恐怖の臨場感は映像作品より勝っているかもしれない。
で、ラジオドラマがほんと怖くて面白かったので、いつか原作も読もうと思ってた。原作も、もうもうもう、ほんと怖かった。
「羆嵐」は大正5年に北海道入植地の山中で実際にあった獣害事件なのだけど、夜中に、体長3メートル、340キロの巨大な猛獣が力まかせに襲ってくる、何度もなんども、その夜の恐怖を想像しちゃうともう身体中の毛穴開いちゃうくらい怖い。相手は聴覚、嗅覚が優れていて夜目も利く。牙も爪も鋭くて、気配を消す能力さえ持っている。掘立小屋に身を寄せ合って松明を灯し続けるくらいしかできないそこを蹂躙しに来る。圧倒的な野生の戦慄。
「羆嵐」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%86%E5%B5%90
ラジオドラマは1980年。
倉本聰脚本で出演が高倉健、倍賞千恵子、宮口精二、笠智衆。名優ぞろいだ。
パッケージになってないのかな、もう一度聴きたいな。
素晴らしい!YouTubeにあった。
https://www.youtube.com/watch?v=5dLw4WwbRiA
(聞き直した。怖かったという記憶がふくらんでたかも。原作のほうが怖い)
小学校の図書室で読んだジャック・ロンドンは「白い牙」。そして「野生の呼び声」。そこで止まってた。少年少女向けの、動物物語…と。
もったいことしたな。
「野生の呼び声」がどんな話だったかもおぼろげだったけれど、懐かしさと、『犬物語』のタイトルに惹かれて読みだす。
「火を熾す」はボーナスのような一編。『犬物語』のタイトルに反して犬が登場しない。「火を熾す」には2バージョンあると解説にある。そう言われたら犬が出てくるほうも読みたくなるでしょ、、と、まんまともうひとつの短編集『火を熾す』に誘導されてしまう。
ジャック・ロンドン、100年読み継がれてきた作家なんだなぁと思う。
無駄な描写がない。無意味な感傷がない。
森林限界線の向こうの荒野で、ぎりぎりの命を繋ぐ野生の獣そのもの。
圧倒的な自然の中では、オオカミにもひとにも、死は容赦なく公平に訪れるけれど、最後の瞬間まで生きることに執着する。静かに。Full Lifeだ。
ヘミングウェイの「老人と海」を連想した。
人生は静謐な苦闘だということ、闘っても結局は負ける、それでも生きるしかない。最期まで。
読み終えて感想書こうと思うんだけど、結局、はにゃ。さんが書いてることに尽きるんだよねー。引用させてください(笑)
ラーシュの心の中の台詞がいちいち、良いんだなぁー。口にだしたらあかんことをいちいち思っている、元偉い人。元長官。justice の人。ここが大事。
時効を迎えた事件の犯人を罰することはできるのか、というテーマがあって。
ラーシュという男の人生を考えると、あの幕引きしかないと思う。
ラーシュの運命と、事件の結末とは、この順番でなければいけない。
justice の人。ほんと、ここが大事。
エクササイズと菜食を続けるという選択などラーシュにはありえなくて、でもそれでいいよね。
翻訳小説読んでると、鹿狩りというのが、あるステイタスを持った白人男性にとって大きな意味を持ってるんだろうな、と思うこと多い。大きく美しい野生動物と銃の組み合わせ。事件の真相を解明して、猟場に戻って、ラーシュはトロフィーを手にしたことになるんだろう。
気になることはふたつ。
ラーシュは〈ギュンテシュ〉のホットドックを食べられたかな?
アメリカに渡ったマックスは良い人生を送れるかな?
極夜――極地の冬に、まったく太陽が昇らない時期があり、それは緯度によって3ヵ月から半年続く。
あえてその時期に、北極圏を一頭の犬と旅する。極夜の真の闇を体験すれば「本物の太陽」を見られるのではないかというのが、この冒険行のコンセプト。
コンセプトって軽い表現と承知で使ってしまうのは、冒険のための冒険、って思えてしまうから。
いや、もちろん状況はものすごく厳しいんだよ?
ずーーーっと明けない夜なんだから、月のない時期は星はキレイだけど真っ暗闇。ヘッドランプで照らせる半径2~3mしか見えない。地形で現在位置を視認することができないから、北極星とコンパスを頼りに方向を確認して重いソリを曳いて進んでゆく。で、読んでて忘れがちだけど、気温は氷点下30~40度。今日は気温が上がって氷が安定しないとか言ってる日だって氷点下28度。
そんな真っ暗な極寒でブリザードにつかまって、爆風の中7時間雪掻きをするとか、、いやいやタフだなぁと感心はするんだけども。
冒険家でいるのも大変なんだなぁと思う。
もう、わかりやすい人跡未踏の秘境なんてないから。Google Earthで地球のほとんどが見られてしまう21世紀には、特別な時間空間を設定しないと冒険にならない。極夜っていうのは、ロマンチックだし悪くないけど、、、う~ん、読んでて無理やり感がある。
極夜の月に照らされた風景に、ああ、ここから先は宇宙空間なのだなぁと思えるような描写もあるんだけどね。読み終えてなにも残らないんだよね。冒険家アイデンティティ探しにつきあっちゃったなぁ、みたいな残念感。
一番サスペンスフルだったのは、食料が尽きて、食うものはもうソリ犬のウヤミリックしかない、、ってところかな(笑)
あえてその時期に、北極圏を一頭の犬と旅する。極夜の真の闇を体験すれば「本物の太陽」を見られるのではないかというのが、この冒険行のコンセプト。
コンセプトって軽い表現と承知で使ってしまうのは、冒険のための冒険、って思えてしまうから。
いや、もちろん状況はものすごく厳しいんだよ?
ずーーーっと明けない夜なんだから、月のない時期は星はキレイだけど真っ暗闇。ヘッドランプで照らせる半径2~3mしか見えない。地形で現在位置を視認することができないから、北極星とコンパスを頼りに方向を確認して重いソリを曳いて進んでゆく。で、読んでて忘れがちだけど、気温は氷点下30~40度。今日は気温が上がって氷が安定しないとか言ってる日だって氷点下28度。
そんな真っ暗な極寒でブリザードにつかまって、爆風の中7時間雪掻きをするとか、、いやいやタフだなぁと感心はするんだけども。
冒険家でいるのも大変なんだなぁと思う。
もう、わかりやすい人跡未踏の秘境なんてないから。Google Earthで地球のほとんどが見られてしまう21世紀には、特別な時間空間を設定しないと冒険にならない。極夜っていうのは、ロマンチックだし悪くないけど、、、う~ん、読んでて無理やり感がある。
極夜の月に照らされた風景に、ああ、ここから先は宇宙空間なのだなぁと思えるような描写もあるんだけどね。読み終えてなにも残らないんだよね。冒険家アイデンティティ探しにつきあっちゃったなぁ、みたいな残念感。
一番サスペンスフルだったのは、食料が尽きて、食うものはもうソリ犬のウヤミリックしかない、、ってところかな(笑)
「人はかつて樹だった」
2018年6月14日 読書
木は人のようにそこに立っていた。
言葉もなくまっすぐ立っていた。
雷に打たれた木を見たことがある。
高校へ向かう通学路の、おおきな杉の木だった。
夏の嵐の翌日、梢を失い太い幹をふたつに裂いて立っていた。
大学生になり、就職し、家を出た、その時もまだそこに立っていた。
雷に焼かれたてっぺんは黒ずんでいたけれど、太い幹の根に近い部分はたくさんの葉に覆われて緑色だった。
実家に戻るたびその木を見た。
その木が伐られて更地になったのに気づいたのは40代の終わり。
雷に打たれてふたつに裂かれて30年生きていたことになる。
この詩集のカバーに描かれた木に、すこし似ている。
ドイツの画家、フリードリヒの描いた木。タイトルは「孤独な木」というそうだ。